妻
書いてある内容をちらっと
娘の修園遠足
娘『っただいまぁ~っ!!』
妻『……ただいま』
勢い良く玄関が開く音に続き、同じく勢いのいい娘の声。そして静かに閉まる音、続く妻のトーンの低い声。
仕事部屋でモニターを前に、あれやこれやと書体を合わせながらキャッチコピーをひねり出そうと、半ば脳内宇宙をさまよっている私の耳にふたりの温度差が突如差し込んだ。さて、今日は娘の修園遠足であった。娘の通う保育所では修園遠足は保護者同伴と決まっている。
ここまでに運動会を初めて成功させ、続く小遠足も難なくこなし、今までの集大成ともなるであろう保育所最後の遠足に、朝ふたりは意気揚々と出かけていったはずである。
ここまでに運動会を初めて成功させ、続く小遠足も難なくこなし、今までの集大成ともなるであろう保育所最後の遠足に、朝ふたりは意気揚々と出かけていったはずである。
(……この声のトーンは、何かあったか?)
すぐに降りるべきか一瞬考えたが、もし、娘が何らかの原因で不安定であった場合、私が現れると娘はすぐに取り繕おうとしてしまうため、こういった場合は妻からのアクションを待つことにしている。
最近は娘もすっかり安定していたので、今年に入ってからほとんどそういった事は気配すらなかったのだが……。何となくそんな不穏なものを感じながら仕事を続けつつ、一応、【そういうことがあるかもしれない】と気を少し割いておく様に意識した。
最近は娘もすっかり安定していたので、今年に入ってからほとんどそういった事は気配すらなかったのだが……。何となくそんな不穏なものを感じながら仕事を続けつつ、一応、【そういうことがあるかもしれない】と気を少し割いておく様に意識した。
ふたりは和室に移動したようだ。何を話しているのかまでは聞こえないが、そちらの方向から妻の落ち着いたトーンの声と、明らかに娘が声を下げて【怒られ態勢】に入っていく様子がボワンボワンと伝わってくる。
(うん。こりゃあ、何かあったな)
和室に移動して話すのは、子供たちに真剣に何かを伝えなければならない時にやること。そして、今まで何百何千と繰り返されてきた娘とのやりとりで、内容は聞こえなくても声のトーンで今どんな状況か分かってしまう。そんな自分の習性に苦笑しつつ、【妻が動いた】のだから後は妻に任せようと、仕事に没頭することに頭を切り替えることにした。
母の迫力
仕事も予定まで進め、日課のブログも書き終わり、ふと窓に目を移す。すでにカーテンの向こうは紫がかった藍色の空が広がっている。時計を見ればもう次男のお迎えの時間に差し掛かっていた。
和室からは未だに妻の落ち着いたトーンの声が、断続的に響いてきていた。
(ん? まだ話してる?)
流石に心配になり様子を見に行くと、そこにはびっしりと書き込まれた紙を前に座り、ペンを握りしめながら、娘の腰の辺まで視線を落として静かに、しかしハッキリとした口調で話をする妻。その斜め向かいには、目の周りは赤く、頬骨などの肉薄な部分は青白く、明らかに【後悔】に打ちひしがれながらも母親の話に耳を傾けている娘の姿。
折よく、ちょうど何かを話し終え、妻はこちらを振り返った。
私『……大丈夫?』
妻『うん。もう大丈夫、後は明日続けるから。後でちゃんと説明するね。用事がてら次男を迎えに行ってくる』
私『あ、う、うん。そう?』
妻『娘はこのまま自分の部屋で休みなさい。……最後の質問をしっかり思い出してね』
娘『はい……。あの、おかあさん?』
妻『……なに?』
娘『きょうはごめんなさい』
妻『……ふぅ。ちゃんと謝れたのは偉いね。がんばりました。でも、さっきの事はあなたが自分でしっかり分かろうとしてくれないといけないの。だから思い出そうと頑張って』
演技や怯えなく妻の言葉にうなづき、自室への階段を登っていく娘。その背中を見つめ、子供部屋のドアが閉まる音を聞いて、ふっと表情を緩めながら肩をすくませ、“ごめんね”のジェスチャーをすると妻は出かけていった。
………うーん、なんだろう、この迫力は。妻の顔は怒りに震えていた訳でもないし、声を荒らげた様子もない。なんだか感情のブレがない、人の持つ強い意思の上の集中力を感じ、その迫力に圧倒されていた。
結婚して初の事である。
ぶり返し?
子供たちが寝静まった頃、妻は今日の遠足で起きたことを全て話し始めた。いつもの定時報告の時間では短すぎ、伝えきれないからと妻からの提案でこの時間になった。娘はあれから自室にいったままリビングには顔を出していない。これも妻の提案であった。
妻『あー、ごめんね。やっと話せるよ。びっくりしたでしょ?』
私『あ、うん。何があったの?』
妻『実はね───』
要約すれば、娘は今までのイベントで問題とされたことを、ぶり返したように全て網羅したとのこと。先生や大人が思い通りに動かないことでの癇癪、思いついたことをすぐに出来ない事への憤り、母親が他の子とコミュニケーションを取っているのを見て嫉妬。そして、遠足途中に通りかかった売店にある玩具を欲しがって断られると泣き出し、その後帰りのバスまで彼女はふてくされ続けた。
これらは大きな流れで、それ以外にも終始ふだんは言わないような“あれやりたい・これやりたい”のオンパレードで、断られる度に悪態をついていた。しかし、それが叶っても特に喜ぶ様子もなく、すぐに飽きてしまう。
帰りの車に向かう前、解散時の“さようなら”でスイッチが入ったようにニコニコし、いつも通りのテンションで家に向かおうとする娘に、妻は怒りとともにあることに気がついたのだという。
妻『今日、あの子がやった事は、あの子自身が曖昧にしてきた部分がほとんどだったの。“なんでダメか・なんでいいのか”とか。それに私が最初に他の保護者とか子供たちを気にして、強く出てこない事を悟った時から、あの子がいつもはやらない事とか爆発させてた気がする。そこにいる大人に合わせて変わり身をとってたって感じ』
私『……そうかぁ。大変だったね。だからあれだけ真剣に話してたんだ』
妻『帰ってきてから話していたのは、“今日ダメって止められたこと・注意されたこと”を思い出せる限り思い出しなさいって。それを紙に書いて、あの子も思い出せるようにしながら、自分が求めた事がどうしてダメだったか、今冷静に考えさせようって思ったの』
私は妻の対応の見事さに、思わず感嘆の声が漏れた。
娘が“なぜ、そういう行動を連発したのか”は別としても、それがいいのか悪いのかが分かっていれば、その発想が問題行動につながる事はなかったと言うのは道理である。
娘が“なぜ、そういう行動を連発したのか”は別としても、それがいいのか悪いのかが分かっていれば、その発想が問題行動につながる事はなかったと言うのは道理である。
私『変わり身ね。そこに“お父さん”がいたら、娘は“ガマン”したのかねぇ?』
妻『……うん。“ガマン”したんだろうね。だからいつまでも“いいか・わるいか”分からない』
娘の絵に描いたようなぶり返しに、私は全くと言っていいほど落胆していなかった。なぜなら妻がここまで何の迷いもなく、自発的に彼女に対する動きを自ら考え動いている。“背を任せられる安心”これ程、パートナーと歩むメリットはない。事実、今日仕事中にふたりの様子に“何かあったな”と感じつつ、時間を忘れられるほどに仕事に集中できていた。
これが今までの家庭生活になかった【安心感】だったのか。
同時に、この一件で私は娘の中で……いや、長男と妻の中でも起きている、自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)としてのパニックの特性の本質に、何かが掴めたような気がしていた。
“どこまで”の壁
妻が娘との別れ際にかけた言葉“最後の質問をしっかり思い出してね”。
あの時二人が話しながら紙にまとめていたのは、娘が起こした問題と、そこに一つ一つの明確な理由を書き起こすことであった。しかし、娘はその中でどうしても思い出せない問題があった。
あの時二人が話しながら紙にまとめていたのは、娘が起こした問題と、そこに一つ一つの明確な理由を書き起こすことであった。しかし、娘はその中でどうしても思い出せない問題があった。
保育所の遠足の途中でありながら、“おもちゃをねだって癇癪を起こした事”である。これは普段、家族のお出かけでも起こらないことであった。
ここまで迷いなく進めてきていた妻だったが、ここに困惑した。遠足で起こした問題の中で、最も娘が感情的になり、そして妻がキッパリと対峙した大きな出来事であったからである。さらに帰りのバスまでずっと引きずり続けていたはずなのに。
翌日もそこで詰まり、娘はすでに考えることを止めていたし、妻も目の前の“どうして思い出せないんだろう”という困惑にオーバーワークを起こし始めていたので役を交代することにした。
私『“一番怒らせちゃった事”を思い出せないんだって? 助けようか?』
娘『……(コクン)』
私『まず、先に言っておくけど、どうして今、こんなに失敗したことを思い出させられているか分かるかな?』
娘『それは……わたしが……わたしが“しっぱい”をしたから』
私『そうだね。でも、それだけだったらそこで直されて終わりだよね。なのに、ここで全部思い出させられている。どうしてだろう?』
娘『……』
私『じゃあ、ここに書いてあることからおさらいするね。“お母さんのスマホで遊びたいってダダをこねた”。これは何が悪いことなの?』
娘『ダメっていわれて、わたしがおこった』
私『そうだね、じゃあ、どうしてお母さんはスマホで遊ばせてくれなかったんだろうね?』
娘『それは……』
私『…………』
娘『…………』
私『わからないなら、“わからない”って言おう』
娘『わからない』
私『うん。前は許してくれた?』
娘『うん。ひらがなのゲームさせてくれた。くるまのゲームも』
私『ほかにスマホで遊ぶのを断られたことは?』
娘『ある』
私『それはどんな時だった?』
娘『…………わからない』
私『じゃあ、君はお母さんのスマホで遊べることは知ってるけど、どんな時は良くて、どんな時はダメか、それは分かってないって事だよね?』
娘・妻『!(驚愕)』
ふたりの方から空気の振動が届いて、思わず吹き出しそうになる。こういう時のリアクションはそっくりだ。そう、ここからが本題に入るところである。
私『スマホで遊べないのはどんな時だったか思い出せないけど、【ダメって言われて怒るのはいけないことだ】と君は答えられたね。でも、どうしてダメなのか分からなかったら、いつもはただ【やるのをガマン】してるだけじゃないの?』
娘『うん。ガマンしてる』
私『いや、だから怒るんでしょ? ガマンするって辛いじゃん。だから“許される”と思った時に断られると“なんで!”って怒るんじゃない?』
娘・妻『!』
私『お母さんの言う“一番怒らせちゃった事”は、同じように君がどうしてダメだったか分からないままに“怒って”済ましたから、やっぱり分からないまま。だから思い出せないんだよ。
あー、思い出せないってゆうか、何したか分かってない。これはいくら時間をあげても君は正解を言えない。だから言うね。“途中の売店でおもちゃをねだって、断られて怒った”ってやつだよ』
あー、思い出せないってゆうか、何したか分かってない。これはいくら時間をあげても君は正解を言えない。だから言うね。“途中の売店でおもちゃをねだって、断られて怒った”ってやつだよ』
娘『……あ』
私『な、悪いことをしたとは思ってなかったろう?』
娘『わたし、おこった……』
私『そうだよ。それどころかその後ずっとふてくされて、お母さんやみんなの事をつまらなくさせたんだ。だからお母さんは“一番怒らせちゃった事”として思ってるし、それが本当にお母さんが一番怒った事でもある』
娘が妻の方を見る。妻は苦笑いの体を見せながらも娘に微笑み返す。
私『スマホを触らせてくれなかったのは、遠足でみんなと遊ぶ時に、わざわざどこででも出来る一人用のゲームで遊んでるのは、みんなと出かけている意味が無い。それも保育所の最後の遠足なんだから、少しでも色んな事を見たり楽しんだり感じたりして、たくさん想い出を残さなきゃいけないんだよね。なのにゲームなんかやってたら、ゲームしか見てないじゃない』
娘『……うん』
私『ここまでは説明されなくても、お母さんはちゃんと理由をつけて断ってくれてたはずだよ』
娘『……えんそくで、みんなといっしょに あそばなきゃいけないって、いってくれた』
私『君は多分そこで、“なんで遠足だからって、みんなと遊ばなきゃいけないの?”って想いもあったんじゃない?』
娘『あ、うん』
私『だけどそれをどうしてか聞かないで“怒った”。それじゃあ、また同じような時に同じようにスマホで遊びたいって言っちゃうし、断られたらまた怒るでしょ?』
娘『なんで……って、きく?』
私『うん。口はしゃべるためにあるんでしょ? それはただしゃべってればいいの? 違うよね、頭の中の考えとか、気持ちとか見えない物を言葉にしようとするから、人間は仲良くなれるんだよ。君の“どうしてダメなの?”を言葉にしないで怒ってたんじゃ、口がある意味が無いし、喧嘩になる』
今までの“浮世”にいる感じの目は、もう戻ってきていた。相づちや返事も“合わせて反応”ではない事がハッキリわかる。
私『ダメって言われたのが分からなくて“怒る”のなら、それがどうして怒っているのか分からない相手だって怒る。それは誰だって同じだよ。“分からない”事が不安になるのはどんな生き物も同じなんだよ』
娘『“ふあん”ってなぁに?』
私『急に先生とかがいなくなって“どうしていいか分からない”時、寂しいような怖いような、ソワソワしたような気持ちにならない?』
娘『うん、なる』
私『うん。“恐い”とは違うでしょ? 叫んで逃げたくなるんじゃなくて、モヤモヤふわふわ寂しいようなイヤな気がするんじゃない? 逃げたくなるのが“恐い”で、怒りたくなったり見ないふりしたくなるのが“不安”って感じかな』
娘『! “ふあん”わかった!』
私『分からないから不安になる。不安になるから怒っちゃうんなら、分からないことを分かるようにすればいい。ダメって言われてガマンとか、“どうして分からない?”って聞かれるかもしれないって、確かめることにまで不安が出てくると、ずっと不安のままだよね。
君はこれから、ここにお母さんが書いてくれた、【ダメ】だって教えてくれた事を【どうしてダメだったか】ちゃんと教わればいいんじゃないかな。そうすれば不安にならないし、怒らなくなるから、ガマンもしなくなる。【どうして】と【どこまで】をちゃんと知りなさい』
悪意なき変わり身
娘がなぜここまで問題行動を噴出させたか。
それは遠足ではしゃいでいて、“楽しい”にとわられどんどん刺激を求めたり、何でも許されるような気になってしまったのだろうか。それとも、慣れない環境の変化にパニックをおこしていたのだろうか。
それは遠足ではしゃいでいて、“楽しい”にとわられどんどん刺激を求めたり、何でも許されるような気になってしまったのだろうか。それとも、慣れない環境の変化にパニックをおこしていたのだろうか。
ふたつとも要素はあったかもしれない。私が思うに彼女がとらわれていたのは【例外】である。
『どこまでが許されて・どこからがダメ』とか、『Aさんは良いといったが、Bさんはダメといった』とか、『こういう時はこうするのが習わし』といった様な、明確な答えのない状況を娘は苦手にしているのは明らかである。
『これに従っていればいい』に【例外】が生まれると、判断や立ち位置の基板が揺らいでしまうからだ。
『これに従っていればいい』に【例外】が生まれると、判断や立ち位置の基板が揺らいでしまうからだ。
今回の遠足でも普段とは違う流れがあり、彼女は【例外】に囲まれた。そこで起こしたパニックとは【どこまで許されるか】だったのではないだろうか?
【許される時と許されない時の線を理解していない】曖昧なものが目に入れば、それが【許されるか】を確かめたくなり、本意でなくてもそれをやりたがる。だから否定されれば反応するが、肯定されてもそれ程のめり込むこともなく、すぐに飽きるような素振りを見せた。
【どこまで許されるか】に向いているのだから、そこにいる人物に合わせて要求も変えていくし、顔色を伺うような行動に傾倒していく事も説明がつく。これが【悪意なき変わり身】の正体だったのではないだろうか。
【どこまで許されるか】に向いているのだから、そこにいる人物に合わせて要求も変えていくし、顔色を伺うような行動に傾倒していく事も説明がつく。これが【悪意なき変わり身】の正体だったのではないだろうか。
もしかしたら以前、長男がイベントの時や不慣れな環境で、刺激を求めてどんどん騒ぐようになるというポイントがあったが、もしかしたらこれと通じるものかもしれない。
こういった【どこまで】から来る不安定性を止めるには、ひとつひとつの説明よりも、【今、どうしている事が望ましいか】をハッキリさせることである。それはこの前の運動会で成功した【立ち位置】と通じるものがある。
【分からない事は不安になる】
私からすれば今回の一件のテーマの様なポイントだが、実はこのテーマを具体的に行動でクリアして見せていたのは誰であろう妻である。それにはまだ妻本人も気がついていなかった。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~不安のコントロール~
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