妻
次男イヤイヤ期の峠
かつて長男がイヤイヤ期を終えた4歳初期。他人と自分の違いのとらえ方が分からず、【自分の思ったことは他人も思っているはず】と何の疑いもなく信じ、脳が別個に存在しているという発想がなかったため食い違いがある度に癇癪を起こしていた事を自覚した瞬間だった。
もちろん、それ以外にも色々な要因があったが、それらを理解し乗り越えていく段階で、最後に大きく土台を揺るがしていた認識がこの【他人との境界線】ということだろう。
次男はイヤイヤ期というほどの反抗や癇癪はなく、かといって言いなりに任せるような依存傾向もなく、自分の想いや考えと現実を比べながら歩んでいる姿があった。しかし、どうやら彼にもこの最後の【イヤイヤ期の峠】とも言えるような、幼児から子どもに変わる瞬間の、自我を獲得するための分水嶺が訪れようとしていた。
ある時期を境に、人との距離感の取り方に、戸惑いを見せるようになったのだ。
いつもは簡単に言葉にしていたものを、戸惑ってモジモジするようになったり、人と関わる度に一瞬何かを考えようとして諦めてしまう様な素振り。これは長男にも見られた、この時期独特な行動だったとすぐに思い当たった。
親としての不安
“何かに引っかかっている”のが分かったとしても、それが何なのかを特定することは、それを言葉に出来ないのであれば非常に難しい。何をどう分かっていないのか、それを分かっていない子どもから見つけ出すのがどれ程困難であるかは、上ふたりで嫌というほど経験している。
上ふたりの場合はここにさらに自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の特性や、そこからズレてしまった認知などで形成された個性が絡み、さらに難解な物になっていた。次男にはそう言った特性がないとは言え、子育てで難しいとされるひとつの境界線にいることは間違いない。
上ふたりの場合はここにさらに自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の特性や、そこからズレてしまった認知などで形成された個性が絡み、さらに難解な物になっていた。次男にはそう言った特性がないとは言え、子育てで難しいとされるひとつの境界線にいることは間違いない。
おそらく次男は放っておいても超えられるだけのスペックを持っているし、困った段階で手を差し伸べればそれを理解しようと歩き出すことは想像しやすい。しかし、上ふたりはこの段階から手を貸さなければ、明らかに越えて行くことが不可能な歩み方をしていたし、振り返ってみても手を貸して初めて成立していたのだと思うことが多々ある。
つまり、私たち夫婦はここで“手を貸さない見守り方”というのを経験したことがない。
ふだん、不機嫌でも抱きしめたり触れることですぐに持ち直してきた次男が、明らかのその安定時間を保てなくなってきているのが分かる。そして、そこで彼が“つまづいている何か”が、言葉に表現し辛い“感覚をさす何か”であることも何となくは理解できる。同時にその“感覚”は、確実に何かを掴まないと乗り越えられないものだとも、雰囲気からは感じ取れる。
おそらくこれは【時間が解決する】が、最も正しく簡単な方法かもしれないと言うことも、自分の今までの人生経験から予測もできる。しかし、私たち夫婦は三人目の子育てでありながらも、この“初めての体験”に、“どこまで見守るべきか”を躊躇していたのだった。
週末知恵熱
次男の様子に微妙な変化が表れてすぐ、週末になると熱を出すようになった。いわゆる“頑張っていい子でいようとしている子の疲れ”と言われる知恵熱の様なものが毎週続くようになった(知恵熱:正しくは生後半年~1年の乳児の免疫獲得時期の発熱を言うが、響きが合いすぎなので)。ひどく大きな問題が起こることはないのだが、やはり正常な生活とは言えないギクシャクした雰囲気があり、毎日のように妻と試行錯誤する日が続いていた。
やがて平日もどこか疲れ切った時の、不機嫌に近い状態が多くなり、多めに休ませる日が多くなった。
ある週末の日、早朝から次男の様子がおかしく、親の方をチラチラと伺っては目を逸らす行動を繰り返していた。話しかけると緊張したようにこわばり、心なしか震えているようにすら見える。お盆過ぎに長男が大フリーズを起こし、その空気に飲まれた時と同じかそれ以上の硬直を見せていた。そして、とうとうテレビを見たまま固まり、動かなくなってしまった。
妻『どうしたの次男。なにかして欲しいことでもあるの?』
次男『……ん……べつに』
妻『何か元気がないけど、具合でも悪いの?』
次男『………………(怒られている様な顔で妻を見る)』
妻『……お熱、測ってみようか』
熱は平熱、しかし遅かれ早かれこれでは体調を崩すだろう。
妻『次男……寝かせるね……』
私『あ……うん、ありがとう』
妻の表情が硬い。あれだけいつも安定していた次男が、なかなかこの状況から抜け出せず、毎日のように夫婦でああでもないこうでもないと対策を練り合っていたのだから、今朝のこの失敗は手痛い。しかし、彼女のこの表情の硬さはそういう事への『難しさ・苦渋・困難』とは違う色が滲んでいた。
これは放っておくとその内にフリーズになる。それはもう今までの経験から明白である。それは表情や仕草からという雰囲気からの印象もあるが、何よりハッキリとしているのが今起きているシチュエーションがフリーズに引き込みやすいパターンだからだ。
【問題を分かり辛くしている、意識外の要素がある時】
今、次男は私たちも分からない“何かの意識について”悩んでいる。その悩みは何なのか・どうしていくか少しずつアプローチしている段階で、上手く行かない現実を次男の行動で見せられた。
まず問題になっているのは“次男は何に困っているのか”なのだが、目前の大きな問題とは“家族の前で不安定になった”ということである。この大きな問題を解決するには、見えにくい“次男は何に困っているか”を見つけなくてはならない。問題を表層的に捉えてしまいがちな妻の場合、真っ直ぐに大きな問題に意識が向かってしまいやすい。
今回の場合は“次男は何に困っているか”という未解決のモヤモヤが、擬似的に【意識外の要素】の役割を果たしてしまう可能性が高い。簡単に言えば、【なんで問題になっているのか分からないまま行動を考えさせられている】ということである。
さらに妻は何かと次男の言動に対して振り回されやすいという弱点がある。その弱点の正体が今回、【意識外の要素】をもう一つ作り上げているのが見え隠れしていた。
さらに妻は何かと次男の言動に対して振り回されやすいという弱点がある。その弱点の正体が今回、【意識外の要素】をもう一つ作り上げているのが見え隠れしていた。
私『あのさ、今起きたのはどんな問題で、誰が傷つき、そして誰が一番悪いと思ってる?』
妻『………えっ?……私が次男の不安定な事にすぐ行動してやれなかった事……』
そうつぶやいて彼女は黙り込んだ。
妻の責任感
その日は長男は遊びに行き、娘も疲れていたようなので昼寝をさせ、午後、妻とゆっくり話をする機会が作れた。
私『もう一度聞くけど、朝起きた事は誰が一番悪い?』
妻『………! ……じ、次男だね』
私『うん。彼が困っていて何かしらの不安行動をとっているのは間違いないけど、それによって家族によそよそしくしたり、目を逸らすような緊張状態を作ろうとしているのは彼だよね。だけど、つい今この時まで、君は自分が“親として立ち回れなかった事”を問題にしていなかった? つまり“自分が悪い”って』
妻『………はい』
彼女の目に涙が溢れた。
私『うーん。確かに今回のは“明るく愚痴る”で気持ちを軽くしたり、本当に問題になっている原因をつかむのは難しそうだよね』
妻『……うん。だって、私が今までちゃんと“お母さん”出来てなかったからかも知れないじゃない? しっかり叱ってあげたり、ちょっとした表情の違いに気づいて声を掛けてあげたりとか、してあげられなかったんだし……』
……それか。その台詞でもう一つの【意識外の要素】を掴めた。
要は妻は次男に対し、今までの自分の接し方が万全ではなかったことを自覚してから、責任を感じていたということである。
要は妻は次男に対し、今までの自分の接し方が万全ではなかったことを自覚してから、責任を感じていたということである。
それは“無責任”とは反対の実直さではあるが、問題が起こっている時に見るべきはそこではない。“今、何が起きていて、なにが直接的な原因かを知る”事である。責任の所存や環境的な配慮などは解決してから、時間を設けて施策すべきテーマの様なものだ。
この独特な実直さはわが家の自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)当事者3人の共通点でもある。そしてこの【実直の罠】から抜け出すための方法も共通している。私は紙にペンで“何が起きたか(問題)・どうして起きたか(原因)・誰が起こしたか(責任)・誰が被害者かどんな被害か(実害)・どうなればいいか(改善)”をなるべくストレートに書いた。
問題:次男が緊張状態を起こしている
原因:次男が何かに悩んでいる・何かのやり方を見失っている?
責任:次男
実害:家族、特に緊張を向けられている私と妻
改善:次男が問題を解消し緊張が解けること
私『さて、ここに君の問題は書かれているだろうか?』
妻『……ない、ね。私、ここまでに夫と色々考えあってきたのに、“自分が動けなかった”って自分が問題なんだっていつの間にか思ってたかも知れない』
私『うん。そうだね。だから君は“泣く”んだよ。大げさでも弱いのでもなく、本当にそれだけの責任として背負ってしまうんだよね。もちろん、今この事実を見て理解できるようになるまでにも、もっと多くの自己評価の低下につながる認知のズレはあったわけだから、この短時間でフリーズまで落ちないで留まれていたのは確実に進んできた証拠だよね』
妻『あ、う、えへへへ』
私『じゃあ、もう一度聞くよ? 今朝起きたのはどんな問題で、誰が傷つき、そして誰が一番悪いと思ってる?』
妻『次男が緊張状態に陥ったのが問題で、傷ついたのは家族。一番悪かったのは、そういう行動をとった次男』
私『うん。その通りだね。じゃあ、【親が子を助けるのは当たり前】というのは抜きにして、どうすればいいかを僕らが考えることは、分かってやれる僕らが彼のサポートをしたのであって、彼の失敗に進ませたものではないよね』
妻『ああ、そうか。被害者連合が加害者に改善要求するみたいな』
私『……なんか物騒だけどそんな感じでいいんじゃないか? というわけで、じゃあ、何で彼がああなったのかもう一度考えてみようか』
次男の“瞬間”
週明け上ふたりを送った後、保育所を休ませた次男をテーブルに着かせ、私はその隣に座ると画用紙を広げた。緊張を緩ませるために、妻は次男の隣に私と挟む形で少し離れて座った。
私『次男は最近お父さんやお母さんに話しかけるのが難しそうだけど、そういう時、どうしたいと思ってるんだろうね』
次男『うーん。うーーん………』
私『あー、分からないなら分からないでいいんだよ。今日は時間がタップリあるから、一緒に考えてみようかと思ってるんだ』
次男『………』
私『じゃあ、お父さんやお母さん。特にお父さんが一緒にいる時に、チラチラずっと気にしているのは自分で分かってる?』
次男『うん。ぼく、きにしてる』
私『どうして? お父さんの何が気になるの?』
次男『……わからない。わからないけどきになる』
私『それはもしかしたら、お父さんに“何かして欲しい”って思うんだけど、それが何かわからないってことかな。どう言えばいいか分からないって感じ?』
次男『……うーん、うん』
私『もしかして、“近くに行きたい”とか“遊んで欲しい”とか、“楽しい感じで構ってくれないかな”って思うんだけど“どう言えばいいか分からない”ってこと?』
次男『うーん、よくわからないけど……うーん』
ここでの言葉のやりとりで、もし私が正解を言い当てたとしても、彼は『その通りだ!』と目を輝かせ、解決するなんて事がないのも重々承知済み。しかし、当たりをつけてある種の誘導を測ることは可能だ。
私は話しながら画用紙に大きな人を書いて“おとうさん”、小さな子どもを隣に書いて“次男”と描いた。そして間に次男イラストの吹き出しを描き『あそんで』と記入。その反対側に気持ちを表すモクモクした吹き出しを描き『あそんで』と記入。
私は話しながら画用紙に大きな人を書いて“おとうさん”、小さな子どもを隣に書いて“次男”と描いた。そして間に次男イラストの吹き出しを描き『あそんで』と記入。その反対側に気持ちを表すモクモクした吹き出しを描き『あそんで』と記入。
私『じゃあさ、この絵を見て。このフキダシには“あそんで”って書いてある。この絵は次男がお父さんに“あそんで”って言ってるね』
次男『うん、あそんでっていってるね』
私『で、ここにモクモク“あそんで”って気持ちが書いてある。“あそんで”って思っているから、“あそんで”ってお父さんに言ってるんだね』
次男『うん』
私『じゃあこうしたらどうなる?』
言葉の吹き出しを手で隠して、“あそんで”って思っているだけの状態にした。
次男『……いってない。“あそんで”っていってない』
私『そうだね。どうして言わないのかは分からないけど、“あそんで”って思ったのに言ってないよね。これでこのお父さんに次男の“あそんで”って気持ち伝わるかな?』
次男『ううん。つたわらない』
私『だから、遊んで欲しい時とか構って欲しい時とか、口に出して言わないと分からないよね。じゃあね、こうしたらどうだろう』
今度は手で気持ちの吹き出しを隠し、言葉だけで“あそんで”と言っている状況を作った。
次男『おもってないのに、“あそんで”っていってるの?』
私『おお、正解。凄いね賢いな。その通りだよ。これはお兄ちゃんがよくやってた失敗なんだ。そう思ってないのに、“お父さんが来たから構ってもらわなきゃ”って焦って言っちゃってたの』
次男『……なんでおもってないのにいうの?』
私『そうしなきゃいけないって間違えてたんだよ。だから“そうじゃない”って分かったら止めたよ。でも次男もちょっとそういう癖ない? お父さんが来たら“なにかしなくちゃ”って思っちゃうの』
次男『あ……うん。ぼくそうおもうことある』
私『正しい事はいくらでもあるんだけど、本当にラクな正しい事はね、【家族はただいるだけでいい・お家はラクにする所】っていうのが一番なんだよ。だから本当に“あそんで”って思った時に“あそんで”って言えばいいし、よく分からないけど甘えたい時や構って欲しい時は抱きついちゃえばいいんじゃない?』
次男『……っかぱ(口が開く音)』
妻がニコニコ笑っている。次男は最近一番の笑顔で妻を見たり私を見たりしている。
妻『わー、顔、全っ然ちがうじゃん! こういうのが分からなかったんだね』
次男『かぞくはただいるだけでいい』
私『そうだよ。毎日お母さんが保育所から帰ってきたら、おねえちゃんと二人を抱きしめて、いつも言ってくれてるでしょ? “家族はただいるだけでいい・お家はラクにする所”って。何かしなくちゃいけないことはないし、気持ちと違うことしなくていいんだよ』
次男『わかった! かぞくはただいるだけでいい!』
自己肯定感
翌日、私と妻は日課の散歩会議を実施し、一日の業務日程を報告し終わった後、次男のまとめ会議に入った。そう、もう“まとめ”ていいほど、次男は完全復帰したのだ。
妻『でも、良かったよ。やっぱりうちの子達はみんな、同じような時期に、越えなきゃいけない所が来るんだね』
私『うん。まあ、血もあるし、育つ環境を作ってるのが僕らだしね。そうなってもおかしくないよね』
妻『……私はやっぱり次男の事に自分を責めて、問題を見失いかけたのは自分でショックだったよ』
私『うん。それは仕方がない。そうなる状況が揃ってたし、こういう問題の対処が分かったのはつい最近なんだから。逆に言えばこれから越せる場所でもあるってことだし。でも何より進歩があったのは、寸前で戻れた事じゃない?』
妻『でも、それは夫が“誰が一番悪いんだ?”って聞いてくれたから……』
私『いや、1度目は君は“自分が悪い”って返したけど、そこに否定されないまま、ちょっと間を置いただけで、次にもう一度問われた時には“次男が悪い”って気がついていた。前ならこのつまづきで1~2週間は沈んでたはずだよ』
妻『あー…、そうだねぇ。ちょっと沈んでたけど、焦ってはいなかったような気がする』
私『自己肯定できる所が増えてきてるのかもね』
かつて妻は自分の認知のズレを比べる尺度がないまま、上手くいかない全てのことを【自分がなっていないから】と、自己評価を下げることで事態に決着をつけてきていた。そのために人からの評価を気にして両極思考は強くなり、【0か100か・全か無か】など“出来ていれば善・出来ていなければ悪”という様な思考方法に取り込まれていた。
これらはまだ“アスペルガー”という言葉に出会う前から壁にぶち当たり始め、仕事の抱え方や子育ての構え方などに多くの影響を与えていて、お互いに問題として向き合ってきた場所でもある。
その頃の彼女は、仕事を自分の事のようには受け止められなかったし、電話を取ることすら出来ればしたくないと言った様子だった。デザインをしていても何処か他人事で、地に足がついていない感覚だけは隣にいてヒシヒシと伝わってきていた。
しかし、“疲れの感じ方のズレ補正”や“スケジュールの押さえ方”、“情報の共有(ほうれんそう)”や“メモ利用ワーキングメモリ拡張”など様々な対策を経て、今は完全に仕事を二分、いや、場合によっては妻の方が案件を請け負う事が増えているくらいである。
これがどういうことであったかと言えば、活動するのに関わる、無数の“曖昧な問題意識”に明確な尺度をつけてきた事による、“ここにいていいんだ・こうしていていいんだ”などの【自己肯定感】獲得の流れだと言える。
長男も娘も、こういった“曖昧な問題意識”に尺度を設置していくことで【自己肯定感】を獲得していく流れは同じで、さらに今回の次男の問題解決も、結局はこの流れと同じことであろう。それには“何が原因で起きている問題か”を自身の特性や個性を踏まえて冷静に分析することが最も近道となる。
この【自己肯定感】を得るための流れは、定型もASDも関係なく誰にでも起きているもので、“何が原因で起きている問題か”を正確に見つめる上で、それが自発的な力で見つけられるかが速度や確実性の差になっているのではないだろうか。
【状況対応に問題が起きた時に、自主的・受動的に関わらず、自分を変化させ、自己肯定感を獲得できるか】
ASDに関わる“障害”とされる部分に、何を目標として歩んでいけばいいかと問われたら、私はこう答えるかもしれない。ついでに言えば“自主的と主体的”という言葉とその意義が混同されることがあるが、【自主的】は“やるべきことが明確な状況で、それを率先して行うこと”であり、【主体的】は“自分で状況判断して『やるべきこと』自体を探しながら進めること”である。
自己肯定感を得られるようになった先は、今度はこのどちらの立場を意識していくかで、人生は大きく変わるのかもしれない。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~悪意なき変わり身~
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