妻
問題が大掛かりになる仕組み
家族の連携、特に夫婦での情報共有が必要な時に、『ほう・れん・そう(報告・連絡・相談)』が確立できない。
それはふつうの家庭であれば、いくらでも取り返しのきくことなのかもしれないが、『些細なことでパニックに直結する』メンバーが半数以上を占める場合、この意思統一のミスは致命的なことになりかねない。
そう、わが家だ。
自分の思い込みと現実のズレを受け入れられない娘と、まだまだスイッチが入ったように不安定になったりして気を抜けない長男、そして普通の三歳児で軽いとはいえイヤイヤ期の次男。そして、彼らとの生活に起こる変化の波に対応できない妻。
自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の場合、変化の少ない生活で安定し、能力を発揮できるが変化の多い生活には混乱しやすい。
だが、子供のいる家庭は、毎日が変化に富んでいる───。
成長に合わせて生活サイクルは変わるし、昨日まで有効だった手段が今日は興味の対象にすらならないなんてことはザラに起こる。
成長に合わせて生活サイクルは変わるし、昨日まで有効だった手段が今日は興味の対象にすらならないなんてことはザラに起こる。
これに対応するには、とにかく起こることを分析し、当事者たちの特性との相性を見抜き、先回りした対応が取れるようになる必要がある。
つまり『ほう・れん・そう』の確率が出来ないのは、交通網から信号機を撤去するようなものだ。
ではなぜ、『ほう・れん・そう』が確立できないのか? それは単純に『何を報告すべきなのか、連絡すべきなのか、相談するべきなのかわからない』という、問題の中核を認識できない妻の特性にあった。
業は繰り返す
仏教の根源ともなるバラモン教などには『業(カルマ)』という考え方が存在している。それは『善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうける』という、まあ、現在の道徳の元となる様な考え。
それを掘り下げていくと、こういった解釈も生まれてくる。
『変化を望んだ時に業は生まれ、それを成就するにはそれ相応の難問がやってくる。そして、一度生まれた業は、超えられない限り何度でもやってくる』
なんとも小難しいようではあるが、単純に生活に例えるなら、『苦手なことがあって、それが自分でクリアできなければ、次にそれが起きた時も困ることになる』と考えれば分かりやすい。
この観点の上でいえば、わが家の上ふたりと妻の場合、苦手から目をそらそうとすればするほど、その問題に引っかかりやすくなり、逃げた分だけ次回により大きな苦手意識に膨れ上がって立ちはだかることになっているような気がしてならない。
そうして繰り返すうちに、彼らはだんだんとその問題が近づいてきた時に『無意識にその問題を避けたり、無視する癖』が生まれてくる。
そう、考える事自体も自動的に防御するため、気づく前に離れたり流そうとしてしまうのだ。
実はこの特性が最も色濃く出ているのは妻だ。
それは、人生経験が多く『苦手意識』をその分持っているからなのかもしれない。
それは、人生経験が多く『苦手意識』をその分持っているからなのかもしれない。
私はこの無意識のうちに逃げたり、気が付けないようにしてしまう彼らの行動を『オートガードモード』と呼んでいる。
叱れないことと相談できないことの正体
子供に対して『注意・叱る・教育する』などの行為に望む場合、妻はこのオートガードが当たり前のように発動している。
子供の問題行動が目にはいらない、耳にはいらない。問題行動が始まると同時に他の家事が気になって退室してしまう。子供があきらかにおかしい態度をとっていても背を向けて他の作業に没頭する。娘が荒れる時間にわざわざ別室に向かってしまう……など。
あまりに自然と起こるので、『なんでいつもこうなるんだろう……』とタイミングの悪さにいつも首をかしげていたが、真意がわかると理解は早かった。
これは彼女自身がその生い立ちの中で、『本当に正しい行為とはなんだろう』と不安の残る未消化の状態で抱えてきたことが大きい。
定型発達者(いわゆるふつう)の場合、これらの『良いか悪いか』の判断の間に、曖昧でも一応の線を仮置きして進んでいこうとする。つまり同時進行だ。
ASの特性を持つ妻の場合は、この線引きが適度に出来ないため、問題を先延ばしにするよう処理をしてしまっていた。
だから子供の行動に自らの判断での『白黒』をつけられない。
彼女にとっては『間違っていたなら後でごめんねーと流せばいい』と軽く考えることもできないのからだ。つまり、子供の問題も先延ばしで処理するために『注意・叱る・教育する』は遂行できず、それに関わる問題を問題だと位置づけることも未処理状態なのでおいそれとはできないということ。
問題を問題だと確定出来なければ『ほう・れん・そう』は不可能だ。
判断のアンカー付け
判断できないことを責めたところで、不安にすくむ者に不安を与えるだけだ。自らの判断で『白黒』を付けられないのなら、その『白黒』を取り決めてしまえばいい。
まずは本来、妻が母として注意すべき行動を子供が冒した時に『今、注意すべきだ』と指摘し続けた。
判断できるのは後ででいい、とにかく『どれくらい注意する頻度があるか』を体感させる必要がある。『どこからどこまで』の基準がわかると子供達は動きやすくなっているのを何度か見ていたので、妻にもそれがあるのではないかと試した所、効果が分かりやすく現れた。
そして、慣れてきた頃に『なぜ注意すべきなのか』を、確実に理解するまで、曖昧な言葉を極力排除しながら伝えつづけた。
注意のひな形
妻『こら! これは~~だから危ない。~~にして!』
ある日を境に妻の注意が変わった。そして、子供の反応が大きく変わっていた。
今までの彼女の注意は
『ん~、こら。それはだめ』
『ん~、こら。それはだめ』
子供達の反応は返事もせず、母親の表情を確認することもなく、ただその場をなかったことにするかのごとく立ち去るだけ。しかし、妻の注意のしかたに変化が現れただけで、子供達のリアクションも変わった。
手を止め、母親の表情を確認し、返事を返す。
私『やったね! ちゃんと注意できるようになったじゃん』
妻『……へ?』
そう、本人には自覚がない。
今まで色々な方法で妻に『正しい注意』をしてもらおうと試してきたが、どれも実を結ばなかった。ありとあらゆる注意する時の用例集のひな形を教えても、ただただ迷いの中で続けられ、途中であきらめられてしまった。
今まで色々な方法で妻に『正しい注意』をしてもらおうと試してきたが、どれも実を結ばなかった。ありとあらゆる注意する時の用例集のひな形を教えても、ただただ迷いの中で続けられ、途中であきらめられてしまった。
これは『教えられたひな形と目の前の現象が一致しているか不安だった』事が大きい。つまり『現象を確認⇒近いひな形を思い出す⇒目の前のことと比較⇒言ってみる』というあまりに無駄の多い経路をたどっていたからだと思われる。
しかし今は違う。『これは~~をしている』と現象を短時間で正確に区分けして認知し、その行動をとがめるリアクションを返しているのだ。
つまりこれは『母親ぶっている』のではなく、『お母さんが気持ちでものを言っている』状態である。
だから子供達の心にもすんなりと響きだしたのだろう。
アンバランス
自分の言葉で注意する行動が根付いた妻、それは私が初めて家で目撃する『お母ちゃんのいる家』だった。
注意される子供が不平を返しても、毅然と『それは~~でしょ?』と的確な答えを返している。その答えが明確だから子供も受け入れ、もう一度トライしようとしてこない。
この完結はわが家になかったものだ。
子供に聞き返されれば戸惑い、その母を押し切ろうとあれこれ言い出す子供達の姿はそこにはなかった。
バランスがとれてきた!
私の待ち望んだ家庭の調和が見えてきていた。これは本当に希望だった。たったこれだけの調和の実現に、どれだけ絶望を味わったことだろう。
同時に妻の波がどんどん小さくなっていくのが、手に取るように伝わってきた。それほど妻にとっても『先送りした問題に埋め尽くされる』のはストレスだったのだろう。
つまり、悪循環がまたひとつ解消されたということだ!
……が、確かな一歩に喜びを噛みしめる私の横で、その『整ったバランス』への変化についていけず、混乱をきたしている存在がいた。
『母親はこうである』という、登録された認識以外に激しい拒否反応を起こすわが娘。
元の母に戻ることを声なき声で叫ぶ娘との、さらなるバランス調整がここから始まった──。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~逃避の代償~
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