妻
書いてある内容をちらっと
獣の如く
子どもたちの行動に対して、一般的な母親のように、構えがない態勢で関わりが持てるようになってきた妻。子どもの違和感ある行動を、考えこまずに指摘できるようになったため、タイミングがズレることなく効果を発揮していた。
……しかし、今まで上手くいかない現実を、ただただ考えこむ事でフリーズし、『先送り』でやり過ごしてきた代償は大きなものだった。
娘の反発。
娘にとって母親とは、自分に干渉する力はなく、押し切れば容易に押し通せる『やわな壁』だった。しかし、タイミングも『なぜ注意するのか』の意図も揃った母親には、つけいる隙間がない上に反論の余地がなかったのだ。
早朝、階下から響く獣の咆哮のような叫び声。最初、私はそれが娘の口から発せられる『音』だとは思えなかった。
奥歯を噛み締めたまま喉を全開にして、あらん限りの力で上げる唸り声。両足は激しく地団駄を踏み、髪を掻きむしりながら───。
しかし、眼は抗議を伝えるべき妻をとらえてはいない。中空のなにもない所を見ら見つけ全身をこわばらせていた。
しかし、眼は抗議を伝えるべき妻をとらえてはいない。中空のなにもない所を見ら見つけ全身をこわばらせていた。
そうしていた理由は、保育所へ向かうためのお着替え中に、たまたま目に入った長袖の服を着たがったが、それはクリーニングから返ってきた冬用の服。季節は夏。妻は常識からそれを止めさせようとした所、突如癇癪を起こしたのだ。
今までも、朝から妻に叱られているやり取りは耳にしていたが、ここまで妻に感情を露わにするのは珍しい。しかし、最近だんだんとそういった傾向は増えているように感じられてもいた。
私が現れても、彼女は唸り声を止めず、強烈な地団駄を踏み続ける。
私『落ち着け!』
声をかけても止まらない。今度は両肩を掴んで顔の正面からもう一度。
私『落ち着け!』
焦点の合わない眼がさまよいながら私をとらえた。
突如からだのこわばりが消え、私から顔をそむけながら空鳴きに移行する。
突如からだのこわばりが消え、私から顔をそむけながら空鳴きに移行する。
母親が思い通りにならない事への苛立ち、絶対者であり依存先である父親の出現で、彼女の目論見は立ち消えた。その絶望とあきらめから、今まさに殻に閉じこもろうとしていた。
妻も興奮状態が冷めないまま、肩で息をしている。
私は娘を引きずりながら自室のベッドに連れて行き、リビングで怯えきる次男を抱き寄せて緊張を解き、笑顔が出るまであやした。
私は娘を引きずりながら自室のベッドに連れて行き、リビングで怯えきる次男を抱き寄せて緊張を解き、笑顔が出るまであやした。
妻も落ち着いた頃を見計らって、次男を保育所に送るように頼み、娘のいる部屋へと向かった。
対話の破綻
ベッドの上にいる娘は今度は私への『媚びる』様な笑顔を作ろうとして、固まったままだった。
私『……どうして怒っていたのか言いなさい。』
娘『ほいくしょは? ほいくしょにいきたい。』
私『保育所はいかない。君が自分で何をしたのか分かるまでいかせるつもりもない。』
娘『いや……ほいくしょにいきたい。』
私『行きたいなら、お父さんの話を聞いて、ちゃんと君もお話を返しなさい。』
娘『…………(うなづく)』
私『どうして怒っていた?』
娘『……おこってない。』
私『あんな大声で、お母さんを困らせてイヤイヤしてれば、誰だって怒っていると思うものだし、それをみんなは怒っているという』
娘『……お母さんがダメっていった』
私『何を?』
娘『……お母さんがダメっていった』
私『あれは寒い寒い冬に着る服だから、こんな暑い日に着て行ったら病気になってしまう。お母さんはそうならないように止めてくれていたんだよ』
娘『……お母さんがダメっていった』
私『じゃあ、今から着てみればいい』
娘『(首を横に振る)』
私『もういいの?』
娘『(首を縦に振る)』
私『じゃあ、お母さんが帰ってきたらちゃんと謝りなさい』
娘『(首を縦に振る)』
私『(こりゃあ、相づちだけ打ってるな……)』
娘にはよくあること、なるべく怒られないように、正解だけを紡いだ相づちだけ返すようになり、コミュニケーションが続かなくなる状態。もう、これ以上はなにを言っても聞こうとしないのは分かっている。そしてこうなった時の会話を、彼女は一度だって憶えていたことはない。
無理に聞かせるには、その殻を破るだけの怒鳴り声や、力づくでの大きな衝撃が必要になる。そうすれば殻から出ては来るが、今それをしても何の意味もない。
私『じゃあ、お母さんが帰ってくるまでここで休んでいなさい。帰ってきたら自分から謝りに下へ降りること。分かったね?』
彼女がうなづいたのを確認して、子供部屋を後にしようとする私の背中に、娘が悲痛な声でつぶやいた。
娘『ほいくしょは……?』
彼女にとっては、母親にしたことよりも、私にたしなめられたことよりも、今は自分の保育所にいけない事がショックなようだ。会話が成り立たない。長男の5歳の時はこんなだっただろうか?
いや、長男は5歳の頃には自分のやりたいことや、気持ちをある程度表現した会話が成立していて、胸をなでおろしたことをハッキリと憶えている。しかし娘の場合はあまりに刹那の欲望にとらわれ、原因と結果や考えと結果が織りなすような、積み重ねた会話が成立しない。
自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)と診断がつき、やっと有効な手立てを打っていけると膨らんだ希望は、早くもしぼみ始めていた。
本当に娘は単純に自閉症スペクトラムなのだろうか……? 再度、何かしらの精神症の疑いが首をもたげ出した。
妻との対話と答え合わせ
その頃、私たち夫婦は一室での夫婦会議を止め、なるべく歩きながら外で対話することを取り入れ始めていた。一定のリズムで歩きながらの会話は、不思議とテンポが良くなり、またポジティブで画期的な発想が浮かびやすいことが分かってきていたからだ。
子どもたちが寝静まった頃、私たちはそっと外に出て、歩きながら対話を始めた。
私『……朝のことなんだけどさ。ふと思ったことがあるんだ。』
妻『うん。』
私『あの子はあの服を着たいっていう思いつきに、心が縛られたのは確かなんだけど、そう働きかけてた本心が別にあったんじゃないかって思うんだよ。』
妻『……………………』
私『母親がいつもの様に、思い通りにならないのが続いて、フラストレーションが溜まっていたんじゃないかな? 今までもあったように、解決できないと悟った時に、極端に破綻させる答えに飛びついて、感情的に他者に線引させるようなやつ。』
妻『……そうだと思う。いや、きっとそうなんだろうなって分かるんだよね。ああやってても、やってることと思ってることがズレてるのは不思議と感じてる。でもどうすればいいのか分からないし、叱らなきゃいけないのは分かるんだけど、やっぱり、どこまで叱ればいいのか分からない』
私『……いや、分からないのは誰だって同じだよ。だから子育て掲示板も子育て本も、色んな種類が出揃ってて、みんないうことが違ってるんだし。』
妻『……そうだね。これでいいのかな』
私『うん。だから今朝、変化があったんだよ。ぱっと見、ストレスの爆発みたいに見えるから、娘を追い詰めてるだけみたいに見えるけど、むしろ今まで君に対して起きなかった事がおかしかったんじゃないかな。』
今までがおかしかった。それはもう夫婦お互いに分かっていることだった。
妻が今まで子どもたちに見せてこなかったこと
妻が今まで子どもたちに見せてこなかったこと
【母として“気持ちをわかってるよ”と感じさせる包容力】
【一人の人間として“それは嫌”という拒絶】
【子どもたち自身の小さな間違いを訂正し続ける根気】
【いいものはいい。悪いものは悪いという判断】
【一人の人間として“それは嫌”という拒絶】
【子どもたち自身の小さな間違いを訂正し続ける根気】
【いいものはいい。悪いものは悪いという判断】
これら全ては人が人との距離を知るのに、非常に重要な手がかりとなる。繰り返し繰り返し天井を知ることで、どこまで飛んでいいか、どこなら飛べるのかを理解できるようになるものだろう。それは父親が見せるだけでは、非常にバランスを崩しやすいようにも思える。完全な欠如ではなく、わが家の場合はそこに母がいるのに『母親不在』であることが、子どもたちの最後の線を曖昧にしていた。
そして、わが家の“母親不在”の時間が長すぎたのだ。歪んだものを治すには、それ相応の力と、形を治す先のイメージが必要になる。子どもたちの年齢で考えれば、まだ間に合わせるには充分だ。しかし、それには大きな反発が返ってくることも覚悟しなければならない。
死角からの一撃
妻との連携する意思を固め、娘の行動に備えたが、娘は沈黙を続けた。あの一件以来、急に妻へのわがままや、『試し』がなくなったのだ。そして、妻や私の前では極力大人しく、ただただ殻に閉じこもって遊ぶようになる。
……これは想定外だった。
妻がどんどん前に出て行くことを誓った矢先に、『どこまでが演技かわからない、注意しどころのない、怪しい沈黙』が続く。
そして、娘の沈黙に代わり、3歳になる次男(定型)の問題行動が目立ち始めた。いつもはやらないようないたずらや、感情のブレが激しくなる。まるで読めていた空気が読めなくなったかのような。
娘に気が行っていた妻は完全に呑まれた。
上ふたりが同じ年頃の頃は、問題行動こそ次男に比べて膨大であったが、どちらかと言えば一辺倒なベクトルがあり、説得が苦手な妻でも理由が明確なために、やろうと思えば対応することもできた。
しかし、次男の場合は違う。子供らしい柔軟な発想で問題を起こし、その注意も納得がいかなければちゃんと質問を返してくるし、その間にも次の質問が膨らんで収集がつかなくなる。
今の妻ではまだ、これに対応しきれるほど、ケーススタディが積み込まれていなかった。
斜面を転がる石ころの様に、妻の対応力や積み上げてきた自信が転がり落ちていく……。あっという間に今までどおりの対処はできなくなり、気がつけば次男への対応に頭を悩ませている間に、娘が便乗してくるようになっていた。
面白いように翻弄される妻。なぜ、次男はここで急遽問題行動が増え始めたのか?
理由は当事者の次男ではなく、周りの者の行動を見ることで、すぐに原因がつきとめられた。
妻、最大の弱点
次男が問題行動に走る直前には、いつも必ずギリギリまで近くにいる人物がいた。それはだいたい次男がおもちゃを取りに玩具部屋に向かった後、次男を追いかけていき、その後におかしくなっていたのだ。
隣部屋にいった後の声を聞いていると、無理矢理に次男の興奮を盛り上げるような騒ぎたてと、大きな暴れる音。ふだん禁じられている危険な行為や、乱暴な遊び方をけしかけ、それを『おかあさんにも見せてあげなー』と促す。
興奮しきった次男は、ふだんは我慢している遊びや行為に血がのぼり、妻の前で披露し叱られる。次男はなぜ自分がそれを始めたのか分からず、戸惑い、緊張する行動が増えていく。
分からないまま母に叱られるのは、幼い彼にとっては相当な重圧だったのだろう、日に何度も何度も同じパターンに陥るうち、母親の愛情を取り戻そうと母親にベッタリになり甘えようとする。
私は見逃さなかった。それを仕向けた者が、絵に描いたようなしたり顔で笑っているのを。
……犯人は娘だった。
どこまでが彼女の狙ったものなのか、おそらくは『弟が叱られるのを見て自尊心をくすぐられる』のを再現していたのだろう。やがてけしかけておきながら、次男が母親に叱られている横で『◯◯はやっちゃいけないんだよ~♪』と煽り、さらに自尊心を高めようとしているのが見て取れた。その手段はさることながら、私は彼女の自己評価のあまりの低さにショックを受けた。
それまでアダ名で呼び、おままごと的に両親の前で猫なで声で呼んでいた弟を、途端にきつい口調で呼び捨てになるようになった。
他を貶めることで、自分を持ち上げる。
社会行動をとる生物に見られる原始的な『位置アピール』の方法だ。
『5歳の子どもがそんなことを?』と思うかもしれないが、これは別段、難しいことでもない。ただ、本能にしたがって行えばいいことだ。これくらいのことは子どもたちの社会でも、起こることはある。
『5歳の子どもがそんなことを?』と思うかもしれないが、これは別段、難しいことでもない。ただ、本能にしたがって行えばいいことだ。これくらいのことは子どもたちの社会でも、起こることはある。
この初歩的な集団社会での歪みは、多層的に状況を判断できない妻には、あまりに大きな課題だった。
上手く行き始めていたのに、よりにもよってなぜ今!
なるべく妻自身の手で成功体験を作らせ、自ら問題意識をもち、ズレに気づいていこうとする自主性を持ってもらいたかった。しかし、娘はそんな私の目論見をよそに、最も効果的に自分の自尊心を高めつつ、母親や兄弟を翻弄する方法に気がついてしまった。そしてそれは今、私がようやく見つけ出した希望の光りを、ピンポイントで遮るような行為でもある。
娘は調子に乗り、味をしめだんだんと親の目の前でも大胆にけしかけるようになっていく。私がそれを叱れば娘は再度硬直し、気づけなかった妻は自分を責めて、より視界が狭くなっていく。たかが5歳の子ども一人になぜここまで大人が翻弄されるのか。私の前では押し黙り、妻の前ではあからさまに仕向ける。娘の思惑通りに妻と次男が操られていく。
そしてとうとう、決定的な場面を私は目撃する。自分のけしかけに、学習能力の高い次男が乗るのを拒否し始めた時、娘は次男を罵った。
『次男、つかえない!』
……耳を疑った。
そして、怒りがこみ上げた。
そして、怒りがこみ上げた。
娘の前に行くと、娘は顔をそむけていつも通りだんまりを決め込もうとする。
私『今、弟になんて言った? 何をやらせようとした!』
すぐににやけたような歪んだ口元になり、目の光が失せていく。
もう、こちらを見てはいない。いつものフリーズ……いや、フリーズごっこに近い。もう意図的に『聞かないようにする』方法を身につけていた。
もう、こちらを見てはいない。いつものフリーズ……いや、フリーズごっこに近い。もう意図的に『聞かないようにする』方法を身につけていた。
そこに他者を思いやる心などどこにもない。今まで数えきれない程に読み聞かせられた絵本も、昔話に散りばめられた道徳も、聞き流されながらも諦めずに伝え続けた私の『良心』は、5歳の娘の中に何一つ芽を出さなかったというのだろうか?
いや、5歳では難しいのかもしれない。しかし、あまりに打算的だ。持っているべき自制心や良心にステレオタイプの欠片すらみられない。今までまともに会話もできなかった分、彼女は大切なところが育っていないし、そこの足りない部分を補う話はいつも殻に閉じこもって逃げられてしまう。あの子は逃げ場所を見つけることにかけては天才的な所がある。
もう、荒療治は不可避だ。
『……ちょっと提案があるんだけど』
ある夜、連日の騒ぎで疲れ果てた表情の妻に切り出した。それは私の決心と、妻に乗り越えてもらう大きな課題の提案。
妻の心に残る、幼少の頃の傷跡を他者の私が触れるような、【トラウマ】との闘いへの誘い。
それは後に『わが子を壊してでも、本道を歩かせるための、本気の衝突』に備えた夫婦の意思統一のための準備でもある。逃避の代償を払う時がやってきたのだ。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~トラウマとの対話~
スポンサーリンク