妻
息子
長男の病名は『腸炎』。特にこれといった原因菌は分からないが、ストレスなどで弱っていたところに、どこにでもいるような菌に負けてしまったのだろうとの事だった。
その小児病棟は低年齢の子どもの場合、親の完全付き添いが求められ、日中は妻が下ふたりを保育所に送りに行ったまま付き添い。その間、私は家で仕事と家事、子どもたちのお迎え時間に妻と交代し、私が夜の付き添いとして簡易ベッドに寝泊まりすることとなった。
しかし、寝泊まりとはいっても、長男の下痢は酷く、数十分~1時間おきにトイレに行く。同時に採尿や排泄物のチェックもしなければならない。要は寝ずの番だ。
“心ここにあらず”といった、長男の反応の鈍さは、入院から2日経っても変わらなかった。まだ、痛みや違和感があるのだろう。意識がそっちに行ってしまい、会話にならない。
『なんだか、生まれたばかりの頃を思い出すな……』
そう、初めて産院からわが家に来て、それからの数ヶ月間続いた、夜の大泣き。あの時も私がこうして寝ずの番をして、やり過ごしたのだった。
あの頃は全く言葉も通じなければ、反応も一定せず、本当に謎だらけの関係。あれから7年。会話が通じて癇癪を止められるようになるなんて、当時は想像する暇もなかった。今もこうして体調が崩れているせいで意思の疎通が薄くなっているが、この感覚もまた変にこちらを意識したりしない“ふつうの態度”なのかもしれないと、ふと切なさとともに感じていた。
『……おとうさん?』
3日目の深夜、少しだけ生気を取り戻した長男が目を覚ました。私は暗がりで本を読みながら、うつらうつらしていたところだった。
私『ん? どうした? トイレか?』
長男『ううん。目がさめちゃった』
私『ははは、ずっと寝っぱなしだもんな』
長男『ぼく、あと何回ねたらかえれるかな?』
私『先生も1週間って言ってたし、後3~4回も寝たら元気になるんじゃないかな』
長男『あと3~4回かぁ……』
私『病院、飽きたろう? 早く元気になって帰ろうぜ~。父さん、暗いとこ飽きたよ(笑)』
長男『うん(笑) ……でもね』
私『うん?』
長男『ぼく、おとうさんとずっといられて嬉しい』
常夜灯のオレンジ色の明かりの中で、青白い顔の息子が嬉しそうにほころばせて言った。
……どうしてこの息子は、こういうタイミングで急所をついてくるのか。鼻がツーンとするのを必死でこらえていた。
簡易ベッドを動かして息子のベッドに寄せ、胸をとんとんしているうちに、彼はまた眠りに落ちた。
あの頃とはちがうんだ。ちゃんと気持ちも通じれば、話だって出来る。やっとここまでこれた。
この小さな体で、こんなになるまで考え、気を使い、失敗を恐れて来たのかと思うと、切ないような愛おしいような感覚が湧いてくる。“ストレスなどで弱っている所に…”と説明を受けた時、すぐに原因は分かっていた。この所、たまたまイベントが重なり、その一つ一つに【上手く出来ないかもしれない】と全力で悩み続けていた長男。口数も減り、食欲も減り。なんど気にさせないようアドバイスをしても、『うん。……うん…』と思考の海にとらわれていってしまった。そして、体調を壊して……。
この病気は腸炎ではなくて【葛藤】を患わせたとも言える。
わが子ながら愚かで浅はかで女々しいことかもしれない。でも、言い換えればそれだけ彼は真剣に生きているということだ。
わが子ながら愚かで浅はかで女々しいことかもしれない。でも、言い換えればそれだけ彼は真剣に生きているということだ。
(退院したら焼肉いくか……、あ、回復食か。飽きないように雑炊のレパートリー研究しておこうっと。)
その夜を境に、長男の具合はどんどん良くなり、回診の先生に冗談を飛ばすようになった。
妻の葛藤
ようやく退院の日を迎え、お世話になった先生や看護師さんにお礼を言った後、妻と長男と3人で特にどこかよることもなく帰ることにした。
退院をしたとはいえ、これから数日間は家で安静し、全快の診断をもらってようやく学校に行ける。正直に言えば、全快したところで原因が治っているわけではないので、いつまたこうなるのかは分からない不安がある。
つまり、彼が【葛藤】に呑まれないよう、注意深く観察しながら、その闘い方を教えていく必要があるということだ。私にとってはまだ『付き添い』は終わっていない。
ただ、ひとつ入院によって救われたものがある。
─────それは私自身の疲労感だ。
娘のぎごちなさが爆発していく中、妻もそれに対応できずに後手後手に回り出す。もう何十回、何百回とわが家で繰り広げられてきた浮き沈みの連続だ。特にここ数週間の娘のよそよそしさは激しく、『自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)』と診断がついても、その通りの対処ではどうにもできない問題に、とてつもなく長くて大きな壁を感じていた。そして今、娘の過剰な意識は、また私に向けられようとしている。
入院中は妻との交代で生活圏が分かれていたため、娘と次男に一週間会っていない。これが思いの外、心をリセット出来たように感じていた。どうも私は別の意味で『入院』に助けられることが多いようだ。
その静けさが今日の夕方で終わる。夕方、妻が保育所に迎えに行けば、また、あの日々が始まる。こうしてしばらく時間を置いたから、あるいはリセットされて、ふつうに娘が話せたりしないだろうか? いいや、それは何度も経験している。その答えは……
娘『…………………………』
私『…娘?』
娘『う゛ぅあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!』
いつもより激しい、疲れきるまで意識に意識を重ね、やがて顔を真っ青になるまで【疲れ】を【苦痛】と錯誤しそれに過集中。結果、受けきれずにフリーズ。そして、一言でもかけようものなら、そのストレスを全身全霊で叫び声に変えて喚き散らす。
これを止めるには、思い込もうと始めた早い段階から止めるか、最初から隔離するしか方法がない。娘は【その時に意識したものを、とことんまで意識】する性質がある。実はその前兆は表情や眼の伏せ方でだいたい分かるのだ。しかし、そのサインが出始めている時は、すでに私への意識にとらわれている状態である。つまり、その意識への過集中の兆しが見えた段階で、第三者が動く必要がある。
この場合はわが家では妻しかいない。
しかし、妻は葛藤する
──これは今、言うべきことなのか?
──これは私の勘違いじゃないのか?
──こんな時、どうやって言えばいいんだっけ?
娘にフリーズの兆しが現れると同時に、妻もフリーズを始めてしまう。それを感じてその場を去れば、娘は癇癪、妻は自責で沈み、繊細な長男は心痛め、次男は父の不在にオロオロする。
そこで妻に言うべきことをうながそうとすれば、こちらを意識している娘は確実に妻より先に気が付き、当然パニックを起こす。
アイコンタクトやメールで教えた場合も、妻は自信がないために聞き返そうとしたり、何度も何度も私に確認を取ろうとするあまり、バレてパニック。
長男の葛藤に始まり、妻の葛藤、娘の葛藤にわが家は毒されていた。
いや、この葛藤は最初からわが家の中にいて、それが一定の刺激で顔を出しているだけにすぎないのかもしれない。
いや、この葛藤は最初からわが家の中にいて、それが一定の刺激で顔を出しているだけにすぎないのかもしれない。
喪失
娘ひとりに翻弄され、妻はあっという間に元の【注意できない母】に戻ってしまった。長男は流石に、もうなめて掛かるようなことはしないが、娘はまた妻への態度に嘲笑の色が出始めていた。
そして私が現れると、娘は急激にいい子ぶろうとし、その緊張から動けなくなったりパニックを起こす。
娘の前兆は分かっている。しかし、そこで葛藤し続けた妻は、とうとう本能的に娘から顔をそむけるようになってしまった。娘がおかしな行動を取り始めると、それを横目で確認してすぐに他の部屋に行ってしまったり、おかしくなる時間が近づくと、わざわざ普段やらないような棚の整理をはじめたりと明らかにいつもと違う行動が始まる。
私は最初、それは自分の考え違いで、私が【細かく、口うるさい、考えすぎ】な夫なのではないかと何度も確かめた。
しかし、それは勘違いではないということが分かる。
私『……今、見てたでしょ?』
妻『えっ?』
私『今、娘が明らかに固まろうと姿勢を変えた途端、君は踵を返したけど…』
妻『………………う、うん…』
娘『(ガクガクガクガク)』
自分のことを父親が話しているのを察知し、パニックを始める娘。それを見て、目頭に力の入ったような独特な切れ長の目に変わる妻。今、彼女も思考回路のパニックに陥ったのだ。
私『いいから話を聞いて?』
妻『う、うん。うん』
娘『う゛ぅあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!』
このやり取りをもう何度くりかえしただろう……。
ふとソファに目をやると、緊張状態を察知して固まる長男の姿。
漫画を顔の前に広げて持ちながら、横目でこちらを伺い、顔は青ざめ硬直している。
ふとソファに目をやると、緊張状態を察知して固まる長男の姿。
漫画を顔の前に広げて持ちながら、横目でこちらを伺い、顔は青ざめ硬直している。
それらの空気を感じてオロオロし始める次男。
何をしても裏目にでる。何をしても救われない。
このボロボロでつぎはぎだらけの家は何だ? どうしてこんなにも弱い。どうしてこんなにもふつうに事が進まない。
このボロボロでつぎはぎだらけの家は何だ? どうしてこんなにも弱い。どうしてこんなにもふつうに事が進まない。
本当は最初っから続くはずのないものを、私が無理やり押さえつけて形にしてただけなんじゃないのか? はじめから壊れることが自然だったんじゃないのか?
気がついたらその場を去っていた。
夏の炎天下、私はあてどなく歩き始めていた。激昂と言うわけでもない。ただただ胸から背中にまで、赤茶けてモヤモヤした何かが、痛くなるほどつまっている感じだけがある。耳もボワンボワンと鈍かったような記憶がある。怒り? 哀しみ? むしろ自分の感情がそのモヤに覆い隠され、ただただ逃げ場のない、狭い狭い感覚。
─────喪失感。
遠くで妻からの電話がなった。
歩き続けて2時間が経っていた。どうやら妻は迎えに来ると言っている。
……どうでもいい。
その日はその夏でも相当に暑かったはずだが、不思議と汗はあまりかいていなかった。顔だけが火照り、心がそこにないようなただただぼんやりする感覚に包まれていた。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~蚊の掟~
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