妻
書いてある内容をちらっと
娘の見極め
家での問題行動が、壮絶に激しくなる娘。どんどん本人の認知のズレが、大きく絶対的なものになり、また複雑化したため、最早会話にならないのが当たり前になりつつあった。
私が顔を見せればほぼ必ずおかしくなる娘、結局彼女の対応は妻がまわらないと、家族の時間すら存続できないレベル。明らかにおかしい時は帰るなり、自室に行かせて休ませるのが、わが家に唯一残された対策となってしまった。
しかし、本人が元気な場合【私だけ仲間はずれにされる!】となり、癇癪とパニックがおき、それこそ平穏な時間がなくなる。
──つまり、帰宅時のなるべく短時間で【休ませる】か【一緒に】を判断しなければならない。
これは表情の少ない娘の場合、非常に難しい判断となるのだが、実は意外と“帰りの車の中での態度が直結している”ことが分かった。なぜそれが分かったか? それは見極め失敗が連続して苦しみ、妻に朝やお迎え時の様子を聞いた時、妻の口からポロッと出た言葉から判明した。
問題点のズレ
私『……今日、朝とかあの子の様子に違いはあった?』
妻『う~ん、朝はふつうかなぁ。まあ、保育所の玄関でも元気なかったけど、今日は車の中でも沈んでたかなぁ……』
私『そうか、うん……うん? ……………………え?』
妻『……え?』
私『じゃあ、君、もうお迎えの時からあの子が変だって分かってたってことじゃん』
妻『……う…ん。……え?』
私『いや、だからさ。今うちで問題になってるのは、あの子が不安定で家庭が不和になることだよね?』
妻『うん。うん。』
私『じゃあ、自室にすぐ行かせるか一緒にいるかの判断はどこでつけるの?』
妻『……………………………………??』
私『こういう事って今までもあったの?』
妻『……うん。』
私『わざわざ家についてからギリギリで判断しないでも、あの子の安定度合いは、車の中まででの行動で分かってたってことじゃない。』
妻『……………………………………ああ、そうか!』
………またか、この素っ頓狂なやりとりは。つまり判断材料はしっかりとあったのに、妻とのコミュニケーションのすれ違いから、ものの見事に見過ごしていたわけだ。
妻には私の苦労が分からなかったのだろうか?
いや、私の苦労は分かってはいるのだろう。どうすればいいのかが分からないのだ。こういった『素っ頓狂』はなぜか彼女の場合、家族に向けて起こり外では起こらない。
いや、私の苦労は分かってはいるのだろう。どうすればいいのかが分からないのだ。こういった『素っ頓狂』はなぜか彼女の場合、家族に向けて起こり外では起こらない。
その理由が分かるのはもう少し先の話だ。
新人社会人の掟
このくだらないすれ違いの根本はなんなのか? 言うまでもない、重要な情報と要点の伝達に不備があったからだ。これは新入社員向けられる最初の社会の掟、職場での『ほう・れん・そう(報告・連絡・相談)』の確立に失敗していることにある。
私は私で苦悩し、その手がかりが欲しいが、自分で手を下すことはできない。妻は妻で苦悩し、その手がかりを含めて多くを眼にしているが、それが要点か判断できない。
まず単純に『ほう・れん・そう』の欠如だけでこの悪条件が成立してしまう。
とりあえず妻にそれを伝え、『ほう・れん・そう』の概念が、わが家の場合は家庭内にも必要であることを伝え、今後の徹底をお願いすることにした。
しかし、この『ほう・れん・そう』ひとつが、彼女の認知のズレによって、とんでもなく高い壁になるとはこの頃はまだ予想もしていなかった。
島国の伝統的社会人ルール
我が国の職場のひとつの伝統として、例えば『上司や同僚より先に帰ることは、はばかられる』というものがある。そのため、先に『お先に失礼します』とわざわざ先に帰る非礼を詫びているのだが、これらは簡略化され形式化されつつも未だに根強い。
海外から見れば、それは『自分の仕事が終わったのだから変えるのは当たり前。どうして詫びる?』と疑問視されやすく、なかには『列島型の相互依存性人格障害だ』などと指摘されることもある。
私からすれば、上司より先に帰れない風紀を作る企業はどうかと思うが、詫びを簡略化して、形式的な挨拶として他を【おもんばかる】ことは協力していく社会にとっては非常に円滑にする文化のひとつだと思える。
……私は古い人間なのだろうか?
この【おもんばかる】が妻に全くないことに、時折、小さなイラつきを覚えることがあった。
例えば『ほう・れん・そう』の失敗により、私が激しく苦悩している時でも、なんの配慮もなくさっさとやることをやって寝てしまう。どんなに私が目の前で傷つき、うなだれていようとも彼女は自分の生活の規範を守るし、むしろ問題が大きい時はよそよそしくなったり私より沈み込んでしまう。
結局、【おもんばかる】どころか場合によっては自分より沈んでしまう妻を、傷つきながら慰め、助けなければならない。
彼女が弱くあることは問題ではない、パートナーとして私の様子よりも、作業や日常が当たり前の様に優先されていく事は関係として非常にドライな物を感じてしまう。そして、そんな事に気がついてしまう自分に女々しさを感じて幻滅する連鎖が起こる。
しかし、不思議と『季節のイベント』や『おでかけ』などの楽しいものに関しては、これらの配慮ができているのが理解できなかった。
この考えを妻に話した時、妻は驚きをもって聞き返してきた。
『え、みんなそうしてるものなの? そう考えてるものなの?』
こう文字にすると、とてつもなく社会性のない人物のようだが、身内の弁護ではないけれどちょっと違う。彼女は社会人の頃はこれらの挨拶などはできていた。そう、形式化された挨拶を言われるまま取り入れこなしていたからだ。
彼女が今聞いているのは【今までやってきたこの行為には、そんな意味があって、みんなその意図を心に行動しているのか?】ということ。
正直、それほど多くの人間がそこまで考えなくても『空気』で感じて合わせていることは多い。そして、社会で経験すればプライベートでも、それとなくその意識がにじみ出ることがある。これがいわゆる『デキる大人』などのオーラなのかもしれないが……。
つまり妻には仕事の独特の様式であり、そこの由来や意図は全くない考えと処理されていたことになる。
峠の気配
こうして妻は多くの【社会人ルール】を、家庭内でのコミュニケーションの中で、人と人との関わりあう文化の由来や意図とともに、逆輸入する事を繰り返していった。
しかし、重要な『ほう・れん・そう』を遂行するには、彼女の認知とトラウマと思い違いが、あまりに多く絡んでいた。だからどんなに必要性を説いても、彼女はそれを行動に移すことはできない。とりあえず『車の中で娘が沈んでいたら、すぐに私に知らせること』『保育所で変わったことがあったと報告を受けたら、私にも報告すること』をルール立て、無感情に遂行してもらうしかなかった。
そう、彼女が私と夫婦としての協力体制を作るには、自身のトラウマとの闘いが待っているということになるのだ。
それは自ら封印し、記憶から消されていることも多く、苦手意識や苦痛をえぐりながら正体を見つけ出していく文字通り試練の連続だった。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~防御本能~
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