妻
誰の責任?
夕食時、ふと部屋の片隅の水槽に目が行った。この夏、田んぼの畦道で拾った小さなミドリガメである。冬眠の失敗が一番恐いので、秋口から専用ヒーターを仕込み、彼だけ未だ常夏の冬眠知らず。
私『あ、カメの水、換えてやるの忘れてた』
2~3日に一度、主に私が水換えをしていて、時折、タイミングの合った時に長男も水換えをしてくれる。忙しくしていて、つい、プラス1日ほどそのままにしてしまった。とは言え、毎日のエサやりを汚さない様に配慮しているので、それほど汚れているわけでもない。
何となく、忘れていたことに気が付き、つぶやいた瞬間だった。
何となく、忘れていたことに気が付き、つぶやいた瞬間だった。
長男『……あぁっ……』
それまで楽しそうに食事をしていた長男が、小さく呻き表情をにわかに曇らせた。すぐに食事に気を戻してはいるが、先程までとは表情に若干の違いが見える。
私『……なぁ長男。もしかして、今、【悪いことしちゃった】様な気がしてない?』
長男『え……ああっ、うん。……はぁー♪』
表情が明るくなり、そしてまた楽しそうに大好物の焼鮭をつつき始める。彼の反応を通訳するとしたらこうだろう。
お父さんが呟いた言葉に、“忘れちゃった”という【悪いことしちゃった】系列の事実を感じてとらわれたが、『~様な気がしてない?』と聞かれて、それ程悪いことでもないと言うボーダーの位置を認識しなおして、スッと軽くなった。
本人は気にもせず食事を楽しんでいるようだが、ちょうどこう言う瞬間に畳み掛けると良い結果に繋がりやすいので、そのまま説明することにした。
私『長男ってさ、今みたいに自分の周りで“マズイ”事が起きると、自分が悪いような気がしちゃってない?』
長男『うん、さっきもちょっとそうだったかも。今は大丈夫』
言い終わるか終わらないかのうちに、鮭をほじくりだす。確かに今は“大丈夫”なようだ。これが困惑が抜けていない場合、不安そうな表情で私の方を向き、軽くフリーズしていたかもしれない。
私『それさ、本当に【自分が悪いかも】って思ってたのかな? “マズイ”事が近くで起きてなんだか急に“マズイ”気持ちなって、それ以外は何も考えてなかったんじゃない?』
長男と娘の箸が止まった。図星……、想定外だったが娘にまで響いたようだ。
私『そういう時は、まず【直接悪いことをしたのは本当は誰か?】を頭の中で見つけ出すといいよ。固まっちゃいそうな時ほど、すぐに出来る事を決めておくといい。例えばカメの水が汚れたのは誰が悪いんだろう?』
長男『みずかえを忘れた人?』
私『確かにそうだね。それと、水を汚したのは誰だろう?』
長男『あ、カメだ』
私『そうだね。でも、それは仕方がないし、その世話をしているのはお父さんで、カメには悪いけどそれほど汚れてもいない、ちょっとした事だったね』
長男『うん、そうだ。でも、さっきお父さんに【悪いことしちゃった様な気がしてない?】って聞かれて、ぼく、すぐにぼくが悪くないって気がついてたよ?』
私『うん。それはいいことだ。でも、出来ればお父さんに言われなくても気がつければいいだろ? だから自分以外のことで“マズイ”事が起きたら、すぐに【直接悪いことをしたのは本当は誰か?】を考えようとする癖をつければいいんじゃない?』
長男『あ、そうか。じぶんで分かるもんね』
まるで自分の事のようにうなづく娘。そして隣で余裕の笑みを浮かべている妻の表情があった。何か私と長男のやりとりに思う所があったようだ。
ちょっとの意識
この【自分が悪いかも】と、すぐに抱え込んでフリーズしてしまうパターンは、妻の弱点の一つでもあった。こうした自分に責任の無いことまで、自分に責任を感じてしまう事を【個人化】というらしい。
これは私がかつて、抑うつ状態になりかけた時に購入した本に詳しく書かれていたもので、当時の私自身もハッとさせられた事だった(参考書籍:いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法 より)。
ただ、そういう時は言葉を発さなくなるため、妻自身がどこまでそう捉えているかは分からなかった。これを彼女が乗り越えたのは、実はつい最近の事だったのである(関連記事⇒アスペ妻の記録~自己肯定感~)。
妻は週末に疲れが出やすい次男の、不機嫌だったりよそよそしい様子に対して【母親としての責任】など、まるごと自分が悪いかのように捉えてしまっていたのだ。
こういった事は今までもあるにはあったが、後から発覚して指摘するしか無かったため、本格的に手を打てた事がなかったのだ。
こういった事は今までもあるにはあったが、後から発覚して指摘するしか無かったため、本格的に手を打てた事がなかったのだ。
“あのさ、今起きたのはどんな問題で、誰が傷つき、そして誰が一番悪いと思ってる?”
かつて妻が物を倒したり落としたりなど、手作業での失敗が多かった時に、自分の意識が動作のひとつひとつに対し、最後まで及んでいなかったと気が付き、一時動作の全てに【これを持つ・~~まで運ぶ・~~に置く】など、ちょっと頭の中でつぶやく習慣をつけ、大きな効果を出したことがあった。
それと同じく、【個人化】に関しても彼女はちょっとしたキーワードを想起させる癖付けを行ったという。
妻『自分は大人だから家庭内でそれほど叱られるような事とかしないでしょ? でも、子どもは思いもよらない悪戯とか失敗とかするから、パッと気を取られちゃうんだよね。
だから、子どもが何かやらかした時に、【私が悪いんじゃない。今起きたのは何?】って、すぐに考えるようにしてたの。
だから、子どもが何かやらかした時に、【私が悪いんじゃない。今起きたのは何?】って、すぐに考えるようにしてたの。
そうしたら、すごく楽になったよ。今までどれだけ自分を疑ってきてたのかなぁって分かった。原因とかが分かっても、【自分の事じゃない】とまではハッキリ線を引いてなかったのかも』
この“ハッキリ線を引いてなかった”という辺が非常に伝わるものがある。わが家の自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者たちに良く見られる反応として、ちゃんと聞けば『良い・悪い』『責任の有無』などを理解していて説明もできる。しかし、その時になると、目の前の『何らかの責任』が存在している所に気を取られてしまう。
もし、目の前の事に気を取られてしまう事が、ASDの特性として絶対的な反応なのだとしたら、もっと大変な事になっていたのではないだろうか。“ハッキリ線を引いてなかった”から起こる反応だとすると、起こる頻度やシチュエーションに納得がいく。
“ハッキリ線を引いてなかった”から、時と場合によって、自分と他との境界線を見失っていたのではないだろうかと。
自分を得た先
つまり、妻は子供たちの失敗や問題を目にする度に、【自分が悪い】とまでは行かなくとも、自らの失敗と同じような責任感のゆらぎを感じていたのである。ただでさえ、責任の重さや罪の意識が両極思考になりがちな彼女ならば、過去に家庭でよく見られた【常にテンパっている様子】に説明がつく。
最初から、子どもに関わらないようにしていたのではない、彼女はパニックを起こしていたのだ。いや、今までもパニックであることは分かっていたつもりだが、それがどういう経路であったか、今はしっかりと腑に落ちている。
【直接悪いことをしたのは本当は誰か?】と考える事と同じように、見失いやすい物事に対して、それに対応した“投げかけ”や“キーワード”があれば、もしかしたら他の事にも効果を生み出せるかもしれない。
これを一言にまとめれば、【自分の行動と認知の結びつきを見直す】という認知行動療法の考えに行き着くが、これがなかなか家庭での対応に落としていくのは難しい。これが今までのわが家の戦略の基本形である。
妻が自らの認知や境界線を見つけてきて得たもの。それこそ“自分”なのかもしれない。
【これは自分ではない】【この意識はここにある】など、自分を認識するためのいくつかの点が、自己評価の低下や不安感、また他人との境界線を見失うことで曖昧になっていた可能性が考えられるのだ。では、自分とは何なのか? それは単に自らの創りだした意識を、知覚している現実とに比較しながら、実感として自らを感じる意識なのかもしれない。
これらを獲得しつつある妻に、今、最も分かりやすく起きている変化は、【過去の自分の思考】と【今の自分の思考】とをしっかり言葉にして話している事である。例えば今回、長男に起きた『カメの水換え』の様に、妻はそこで起きている事を、かつて自分が乗り越えたものとして認識し、どうやって自分に落とし込んだかを語ることができた。
同様に、今まで自分が努力していた部分を、言葉にして伝えようとしている事が増えてきている。時には話しながら自分の考えをまとめ、着地点へ結びつけたりなど、自分を語る際に分析と言葉化の二つをこなしている。
言葉が用意されたものではなく、自分の中から取り出していると言ったら良いのだろうか。だから真面目な話や議論でも、会話が予定とズレても戸惑うことがない。
これらは明らかに妻に起きた変化であるが、同時に私が得られたものもある。それは今まで妻から聞けなかった、当時の妻の心の在り方。私自身、分からないまま片付けられた事の中には【個人化】したように、自分の非として宙ぶらりんに処理してしまっていたこともある、それを知ることで『そうだったのか』と救われることがたくさんあるのだ。
私が見てきた私サイドの視点とは別の、妻自身が【なにを困り、どう努力し、どう達成したか】という視点での話が聞けるのが、私の中で今非常に熱い。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~娘、ぶり返す~
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