妻
表情での感情表現のバリエーションがない
それは私と娘との会話の中で起きたことだった。
何度も同じ悪戯を繰り返してしまう娘に注意していた時、頑として謝ろうとしない娘の表情をみていて浮かんだ疑問を、ストレートにぶつけてみた。
5歳になり段々と表情の種類の違いが見えてきて分かった【謝りたくない】と【謝るのが怖い】の違い。それは常日頃注意深く見ていないとわからない、微妙な違いだ。
【もしかして、謝っても許してもらえないと思っていないか?】
私のふとした疑問に、娘の反応は想像以上だった。はっとした顔で、同時に『それが言いたかった』と言うような、演技も浮世離れもない、妙に大人びた表情。これが娘の本当の表情だということも最近わかった。
私を意識しすぎて固まる娘の表情には、ネガティブな色ばかりだが、実はその中にいくつかの感情が『同じ表情で表現されている』ということが見て取れるようになったのだ。
例えば『緊張』『恐怖』『具合が悪い』『よくわからない』『何かが気になっている』は全て青ざめて塞ぎこむ感じ。で、冒頭の質問が可能になったのだ。
……しかし、本当に想像以上だったのは、娘の反応よりも、妻の反応だった。
娘と全く同じ顔で私の顔を覗きこんできていた。
『ごめんなさい』はひとつじゃない
とりあえず身を乗り出した妻を置いておいて、娘に説明を続けた。
─ ちゃんと謝っても許してもらえないこともある。相手の怒りが収まらずに、説教が続いたり、謝り方を失敗した時だ。
でも、それは一生許してもらえないってことではなくて、今はまだ許せないってこと。だからって諦めたら、それこそずっと許してもらえない。
これは嫌われたんじゃない。謝り方を間違えているからそう思っているだけで、許してもらう途中だってことでもある。
実はごめんなさいには二種類あって、みんなはそれを使いこなしている。
【相手の怒りを抑えるためのごめんなさい】
【落ち着いた頃に伝える許してもらうためのごめんなさい】
まず謝って許してもらえないのは当たり前くらいに思って、まずは相手を落ち着かせるごめんなさい。そして落ち着いたら許してもらうためのごめんなさいを言うこと。
自分が悪いと思っているのなら、まず自分から許してもらおうとするのはみんなのルール。でも自分が悪く無いとおもっているのなら、そのことはしっかりと言わなきゃいけないけど、それにもまず『不快にさせたこと』は謝らないと、聞いてももらえない─
許してもらえないから、謝るのが怖い。もしくは謝ることが『可か不可(0か100か)』かのどちらかの答えしか無いと表層的に考えているので、全ての罪を背負うような恐怖心が起こったということだろう。
『……あ、あのぅ~…』
説明を終えた時、手を上げたのは妻だった。
そして、妻の今までの人生経験が紐解かれていった。
そして、妻の今までの人生経験が紐解かれていった。
あやまらなくて済む選択
謝罪を『0か100か』でとらえると、それは非常に重たい判断のようになってしまう。社会には『ごめんなさい』の一語で、一体どれほどの意味合いを含ませて使われていることか。
私はいままで意識したことはなかった。
しかし、それは彼女たちもある意味でそうなのだろう。『0か100か』でそれをとらえたのなら、『あやまらない様に事を進めていくか、あやまらないか』の極論に到達するだろう。実際、私と出会ってからの彼女の人生の一部分でもそれは見て取れていた。
自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者が苦手とされるオープンクエスチョン(例:最近どう?などの複数の答えが内包される質問)と同様な混乱を招くことなのだから。
実際に妻の今までの態度や行動には、これらに裏付けられた、どこか窮屈な印象の世界観があったのだ。
例えば
【はじめから失敗しない選択にこだわる】
【小さな謝罪でもおどけで済まそうとする】
【相手が怒っていると貝に閉じこもったように黙る】
など。
【はじめから失敗しない選択にこだわる】
【小さな謝罪でもおどけで済まそうとする】
【相手が怒っていると貝に閉じこもったように黙る】
など。
これは日々の小さな繰り返しだけでなく、仕事や人生観にも多く現れ、ネガティブに思える物事の進め方が目立っていた。そのため、自分を必要以上に低く評価していて、せっかくの【集中力】や【特定方向での発想力】が停止してしまう。
これらの障壁は他の要因もあるが、妻の場合は特にここが大きなウェイトを占めていた。これは確かに【失敗】の数は減るので【あやまらない】で済む。しかし、何かにつまづいた時、それに気をとられて抱えたまま、ただただ低下していくルートにもなりかねない。
いや、現に今、そうなっている。
こわばるための距離感
そして、この【あやまらない】姿勢は、人間関係の距離感にもそうだが、どこか物理的な人との距離感にも現れている。不安の伴う内容の会話の場合、明らかに一定の距離を保ち、手をみぞおちの前当たりでもじもじさせるなどの【こわばる仕草】をみせる。
仕草とは非常に不思議なもので、心理の現れとして仕草が生まれるのはもちろんのこと、逆に仕草を模倣することで、それに対応した心理に陥ることがある。
例えば眉間にしわを寄せていると、視界が狭く暗くなり、感情もだんだん『眉間が険しくなる時のような嫌な気持ち』になるものだ。
妻に見られるこの【こわばる仕草】も、同様な心理を作り出しているように思えた。
絡み合うズレの呪縛にスキマが……
この『ごめんなさい』の考えは、妻にとっては大きなターニングポイントだったようだ。それは日々の物事への取り組み方はもちろん、子どもへの教育やしつけ、道徳的なことにも関わる明らかな進展だった。
もちろん【気の利いたフォロー】などには大きな課題が残るものの、今までのように【こわばり】がみられない。
そう、彼女は子どもの人生に食い込むことにすら【こわばり】をもって、立ち尽くしていたのだ。
この小さな立ち位置の変化は、家庭にとってはとてつもなく大きな意味合いをもつ。なぜなら家族の精神構造の6~7割は、その家の母性に頼った形で形成されると言っても過言ではない。これは心理的にも父親が肩代わりするのは難しい。
今までどうしようにも『何かが障壁になり、何かが足に絡みつく』といった、重たい家族の印象が蔓延していたが、この小さな変化は非常に頼もしい気配の現れであった。
ここから約9ヶ月に及ぶ、娘との最大の闘いの間、妻はこれらの小さな変化を何度も繰り返し、失敗し歩み始めることとなる。
この期間の変化はわが家の一生ものの大きな意味合いを持つ時間となるのだった。
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