妻
書いてある内容をちらっと
別離不安
長男との衝突から数日、すでに本人はいつもの調子を取り戻し、何事もなかったかのように平静に過ごしていた。むしろ、これまで私の中でわずかに違和感を感じさせていた、いくつかの部分が解消されていた。
・何かしら話しかけようと常に必死
・自分に関連のない会話でもすぐに入ろうとする
・『楽しい』の表現や演技を大げさにする
・常に周囲の反応を伺う姿勢
これらは表面的にはそれほど大きいものではないが、常に彼に見られていたもので、どこかその場に馴染めていない様な、【独特な距離感】を作り出していた。そして、自分が疲れなどで不安があるほど、これらは強くなり、やがては硬直してしまう。これが長いこと起きていた彼のサイクルでもあった。
───学校でも家でも常に【他対一】と同じ生き方である。
それは自ら孤独を生み、自ら愛着障害を作り出す行為そのものであるが、その根本は人との付き合い方に【預けきる】か【自力】の両極思考に偏っていた事にあったように思える。【意見と意見の相違を確かめる】【ズレている距離を想う】などの中間を探る視点は、彼には全くと言っていいほどなかったのだから。
この距離感は、別離不安が先か自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)としての特性が先かは分からないが、人間関係に対して両極思考を持たせたり、意見から何から人に合わせてしまうパターンの獲得に強い影響を与えていた事は見えた気がする。
簡単にいえば、彼が抱える多くの不安や恐怖は、人との【別離不安】そのもので、それに対して受動的に動くことに邁進し切ったが故の歪みが起きていたということ。そしてその行動をしていないと【別離不安】が募るため、手を引くことが出来ない。必要だったのは、そこに逆らう反発心だったのである。
今回長男はその距離感や両極思考を、反発から生み出される自分の気持ちを知ることで越えられる事が出来た。これは娘にも起こっていたことである。不思議なもので、わが家のASD当事者3人は、こういった認知に関わる感覚を一度憶えると、それまで出来ていなかったことを思い出せないほどにグルンと認識が変わることがある。まるで自転車に一度乗れると、後は何年ブランクがあっても乗れる様に。
この【別離不安】は実は誰もが持っていて、そして人のあらゆる不安はここに帰依すると言われている。そこへの対応の取り方で、個々性として人間関係の築き方の大部分が決まっているのではないだろうか。
これを感じさせたのは、この後の次男とのやりとりであった。
次男の気持ち
長男が硬直し続けていた影響を受け、次男も私の顔色を伺う仕草をするようになってしまったが、これももう何度も起きていることであるし、今回はその事情もある程度見えている。
夏の疲れ、運動会練習の疲れ、4歳になり環境が変わりつつある戸惑い。
元々次男はイヤイヤが少なく、【話せば分かる】と言う稀有なタイプであるが、その実、非常に多くのことを同時処理し続けているため、エネルギー切れは起きやすい。良くも悪くも【聞き分けのいい子】である。
同じ年の頃の長男と娘の場合、ここで自分の考えと違うものであれば、癇癪を起こすか絶望したように沈み込んでしまう事が常だったが、次男はそうしたフラストレーションの影をあまり見せたことがない。単に思考力が落ちることで面倒くさくなり、不機嫌な対応になるだけで、自ら休憩を取ろうとする事もある。
同じ年の頃の長男と娘の場合、ここで自分の考えと違うものであれば、癇癪を起こすか絶望したように沈み込んでしまう事が常だったが、次男はそうしたフラストレーションの影をあまり見せたことがない。単に思考力が落ちることで面倒くさくなり、不機嫌な対応になるだけで、自ら休憩を取ろうとする事もある。
この決定的な違いは何なのか? 長男との一件から数日、体調を取り戻した次男に直接聞いてみることにした。
私『お父さんの事をチラチラ見続けたり、ビクビクしちゃってたのは憶えてる?』
次男『うん。そうしてた』
私『あれ、お父さん凄く悲しいんだよ。大好きな次男に怖がられたような風にされると、もう仲良くしてくれないのかって思っちゃうんだ』
次男『……ぼく、こわがってない』
私『ん? じゃあどうして?』
次男『わからない。んー、してた、だけ?』
私『なんでしてたんだろうね?』
次男『わからない。でも、おとうさんがいやなの、わかってた……』
私『分かってたのに、どうして?』
次男『おとうさんがいやなの、ぼくもいやで、かなしかった』
私『……そっか』
次男『おにいちゃん、おにいちゃんがこわそうで、かわいそうだった』
私『……お父さんが怖かったのかなぁ』
次男『おとうさんは、こわくなかった。おにいちゃんは……どうして?』
次男は初動こそ“分からぬまま、つい”だったのが、途中からは自分への嫌な気持ちで立ちすくんでいただけだったのだ、同時に兄の様子も見て“どうしたものか”と考えていた。……なんてことだ。ただの幼子のオーバーワークじゃないか。
分からなかったとは言え、彼のこの戸惑いに気がつけずに私は怒り、悲しんでいたのだ。
分からなかったとは言え、彼のこの戸惑いに気がつけずに私は怒り、悲しんでいたのだ。
私『うーん、お兄ちゃんはねぇ、ちょっと次男には難しいかも知れない。でも、もう終わってお兄ちゃんが“怖い”のなくなったから大丈夫だよ』
次男『ふーん』
私『……あ、でもお父さんに“いやなこと”した罰は罰な! 本当に元気になるまで散歩なし』
次男『あ、さんぽ……』
私『嫌だったらしっかり休んで早く元気になってよ』
次男『うん! ねる!』
休みの度に疲れが出てしまうのは心配だ。でも、それだけ頑張っているのだと、体力が付いてくるまで見守るしかない。年齢の割に、やや自分の気持ちを伝える事に突出している部分も見られるが、個性の範疇。
今彼が疲れているのは、単に年齢的に絶妙な社会性の変化が訪れる時期である事もあるが、彼が『同時に多くのことを考えられすぎた』事が大きい。その幾つかを放ってしまうか、完全に分からなければ良かった。彼はある程度の領域まで理解してしまったために、同時に抱えてしまったのだろう。これも年齢的には十分に考えられる、体力・能力・精神のアンバランスさだ。
長男と娘と次男
長男と娘との決定的な違いは、ここで抱えた様々な問題に対し、答えを出せないのは同じでも、自分の気持ちを主体として構えていたかということ。
例えば長男は私との関わりに、【お父さんと仲良く出来ないと不安】と感じ、【お父さんと仲良くするにはどうすればいいか】と考えた。これは私の出方一つで彼の答えは変わるものだし、方法論からスタートしているので、こちらに気持ちを伝える過程が欠けてしまう。
一見【合わせている】ので物腰が柔らかそうでいながら、こちらが思い通りに動かない限り満たされない、一方的な要求でもある。
一見【合わせている】ので物腰が柔らかそうでいながら、こちらが思い通りに動かない限り満たされない、一方的な要求でもある。
その視点のズレに気が付けない以上、年齢的にも自力でそこにたどり着くのは、不可能に近いと言っていいだろう。
人間関係の大きな原則と言えば【共感】である。その原則に近寄るには、何よりお互いの気持ちと気持ちの接点を見つけていくことだが、共感である以上、そこに決着を付けようとしてはいけない。お互いの円の交わる共通エリアを、コミュニケーションの糧として、踏み込み過ぎず引き過ぎずが丁度いい。それはお互いを守ることでもある。
次男の取った行動は長男と表面上の違いはないが、その視点に大きな違いがある。最初こそ兄の行動に合わせて釣られた訳だが、その後、父親の表情を見て悲しいと感じ、どうするべきか考えた。しかし、その最初の間違いの原因となった兄と父親との関係は解消されているわけではない。だから彼は長男の事も気にかける必要が出てきた。
簡単に言えば板挟みではあるが、合わせようとしたのではなく、考えあぐねていた。思考停止ではなかったということである。
時折、わが家のASD当事者に感じていたことだが、私から見ると問題に対し彼らは『先送り』とも取れる、防衛的な思考停止が見られることがある。本人は考えているつもりだが、その周辺問題にグルグルと思考を巡らせ続けている状態。その多くは『自分がどうしたい』が抜けているため、着地点を想定するなどの一手を取るのに非常に多くの時間がかかってしまう。
また、時間が掛かるほどに焦燥感もつきまとい、その問題を関連範囲ごと苦手と捉えて逃避してしまうこともある。
また、時間が掛かるほどに焦燥感もつきまとい、その問題を関連範囲ごと苦手と捉えて逃避してしまうこともある。
問題の解決にはどうしても自発的に仮定して考える必要があるからだ。
それにはどこにいても最も見えやすい指標のようなものをベースにするのが早い。それが自分の気持である。
それにはどこにいても最も見えやすい指標のようなものをベースにするのが早い。それが自分の気持である。
【憤り】と【怒り】の違い
自分の気持ちとは何なのか───?
これは彼らに説明する時に、私が最も頭を悩ませた部分。
しかし、それを説明できるようになるだけの、ちょっとした衝突が妻との間に起こってしまった。
しかし、それを説明できるようになるだけの、ちょっとした衝突が妻との間に起こってしまった。
その日、地域のイベントに参加することになったのだが、どこか妻に余裕を感じられず、フリーズ寸前の困って固まったような表情で、娘に手を引かれるままフラフラと歩いていた。イベントも終わり、家についたが妻の疲労感は抜けず眠り続けた。
日も沈み始めた頃、妻が目を覚ましたので声をかけた。
私『大丈夫? 疲れちゃった?』
妻『……うーん』
表情は未だ硬く、反応が鈍い。フリーズというか、離人状態なまま、なんとなく相づちを打っているようにも見えた。文章にしてしまえばこんなもの。誰かに伝わるかは分からないが、この小さな離人状態は、非常に厄介だ。なぜなら長男が受動的であることに疲れ、合わせられなくなり、その不安から潰れていく自家中毒と同じく、これは妻が沈んでいくパターンそのものだった。
“今は疲れているだけ”
この感覚が目覚めた時に抜けていなければ、彼女は戸惑う。
“疲れが取れているはずなのに”
そうしている間にも生活はその場面を変える。小さな変化が重なり、やることが通り過ぎて行く。最初の小さな離人感はドミノ倒しの様に連なり、───落ちる。
これは肉体的な疲れではない。
これは肉体的な疲れではない。
私『ひとついいかな? 君は今日、イベントを楽しめた?』
妻『……ん? ああ、そういうこと考えてなかったな……。長男がやっとふつうに戻って、娘も今年はじめてやっとふつうにイベントに参加できるって、だからとにかくあの子たちだけ楽しめればって思ってたよ』
私『そうだね。今まで大変だったもんね。でもさ、実はそういう時の君、物凄く“つまらなそう”にしているんだよ……最初から自分は参加しないって感じで』
妻『………うん』
私『本当は疲れちゃったのにも理由があるんでしょ?』
妻『………本当は……、娘に手を引かれ続けて要求ばかりなのが辛くて、そしたら人混みが凄く不快になり出して、音だらけでどんどん疲れていった』
私『そういう事も含めて、話していこうよ。言葉にして出してかないと』
妻『分かってる! でも、こんな事で疲れちゃってる自分が嫌だし、やっと家族で出かけられる日に子どもの事で余裕なくなって潰れてるなんて、自分で自分が嫌になる』
私『だから言えなかったって事か……』
彼女が感情的になるのは珍しい。感情的に私との会話に強く出てくるのは何時以来だろう?
妻『長男の事だって、私がもっと早くから怖いお母さんが出来てて、バランスが保ててたらあんな事にはならなかったし、今日娘との付き合い方だってもっと分かったかもしれない。そういうのが重なって“消えちゃいたい”って思うことだってあるよ!』
私『……それは“死にたい”って事か?』
(『何度かね、一人で車運転してる時に、このまま一人壁とかにぶつかって、終わりにしたいって思ってたことがあるの……』※参照:43アスペ妻の記録~すれ違いの本質~)
頭の中に、あの時の妻の言葉が響いた。
休む隙がない。本当に休む暇なく、心が揺さぶられる。この家族というものは。
休む隙がない。本当に休む暇なく、心が揺さぶられる。この家族というものは。
妻『……だって、もうこんな事すら出来ないなんて』
私『死ぬなら俺が死ぬ、子どもたちが不安なく身を任せられるのは君だ。俺だけといたら壊れてしまうかもしれない。それくらい俺ダメなんだよ、父親として』
妻『そ! そんなこと……!』
息が詰まる。血流がおかしい。胸も顔も不快なくらい熱ぼったいのに、喉の奥だけ冷たく感じる。今すぐ静かに眠りたい。……が、これがいつもは伝えられない何かを伝えるチャンスだということも、嫌というほど私の体は理解しているようだ。
長男と娘と同じ。今妻が言い出したことが何なのか、それぐらいは分かる。そして、なぜここまで私の心が揺さぶられているのか、それも何故なのか分かっている。
長男と娘と同じ。今妻が言い出したことが何なのか、それぐらいは分かる。そして、なぜここまで私の心が揺さぶられているのか、それも何故なのか分かっている。
私『今さ、君が口にした別離の言葉、その怒りは誰に向けているものなんだ?』
妻『……私。……出来ない自分』
私『そうかな? 色々思い通りにならない事への“憤り”を募らせて、出口が見えてないだけじゃん。それは本当に自分に向けた“怒り”なのか?』
妻『憤り……?』
【怒り】は対象がある。因果関係が分かっていて、直接的な原因や相手がハッキリ明確であるもの。ぶつける相手がいる状態だ。対して【憤り】はぶつけ様のないもの、どこに向ければいいのか分からない、対象がハッキリしないもの。
長男と娘の癇癪はそのほとんどが【憤り】で、実際に彼らが【怒り】を見せたのは他でもない、逃げ場を失わされて反発した瞬間だけだと言っても過言ではない。そもそも“自分がどうしたい”を持たなければ、【怒り】は生まれない。生まれるのは状況に対する憤りだ。【怒り】は自分で治められるが、【憤り】は対象がいない分、状況に左右されてしまう。
いや、これは彼ら3人だけの問題ではない。かつて私がカサンドラ症候群からうつ状態に陥った時、私は全ての問題解決方法を“~~だから出来ない”と、ただただ今の自分の行動を肯定するために、調べておきながら否定していったあの頃と同じだ。
自らのいる環境に対して、自己評価が追い付いていない。
自らのいる環境に対して、自己評価が追い付いていない。
私『つまり起きてる問題に対して、君が【こうしたい】って少しでも思っていなければ、それは世界に合わせ続けることになって、否定する対象が大きくなりすぎるから、愚痴ることすら出来なくなるんだよ』
妻『愚痴る……ああ、そういえば私、ずっと人の愚痴を聞くのが怖かった。だから言うのも嫌だと思ってしないようにしてきてたなぁ……』
私『出かける時に、“やっぱり面倒くせぇなぁ”とか、子どもが言うこと聞かないのが続いた時に“冗談じゃねぇ”って思うことあるんじゃないの? 仕事してても“面倒くせぇなぁ”ってあるんじゃない? 単に愚痴るばかりだと不快だけど、それは相手に向かって言っているのでもないし、相手が君に対して言っていることでもないよ』
彼女の表情が変わった。急に現実味のある、実感のある表情に戻った。
妻『……ああ、そうか。私、愚痴を聞いてて傷ついてたんだ。“否定的な言葉に反応する”だったんだね。だから自分も言っちゃいけないって思ってたんだ。うん、そう言えばイベントの事話したら軽くなった』
私『それに、打たれるがままだった長男が、ちゃんと話を聞くようになったのも、痛みに対して“冗談じゃねぇ”ってなったんだよ、きっと。あれから自分の気持ちの場所が分かりやすくなったんじゃない? だから気持ちを向ける対象も、思想的な相手じゃなくて、ちゃんと現実の相手に向けられるようになったんだよ』
妻『愚痴ってよかったんだ……ね』
私『うん、できればそれで笑いが取れるくらい茶化しながら愚痴ればいいと思うよ。少しでも否定的な空気を作らないために』
妻が死を考えたこと。自分もかつては考えたのだから偉そうには言えないが、やはり彼女を無責任だとは思わない。【憤り】の重なりはあらゆる出口を見えなくすることがある。その閉塞感は覗いてみた者でしか分からない、決して甘えなどではない独特の世界。
痛みや苦しみというよりも、知らぬ間にそちらの浮世にいて、そちらの常識で考えさせられているような感じと言えば近いだろうか。もうその答えしかなくなるまで、目の前の出口が閉じられていくのを目の当たりにし続けるのだ。ここに現世の社会通念など、何の役にも立たなくなる。
痛みや苦しみというよりも、知らぬ間にそちらの浮世にいて、そちらの常識で考えさせられているような感じと言えば近いだろうか。もうその答えしかなくなるまで、目の前の出口が閉じられていくのを目の当たりにし続けるのだ。ここに現世の社会通念など、何の役にも立たなくなる。
その後、彼女と対話を続けながら編み出したのは、【楽しく愚痴る視点】。
すでに彼女はこのテクニックを出せるようになってきているし、無意識のうちにできている。これで何が変わったか、普段が落ち着いてきているだけに、大きなイベントや変化でもなければわからないかもしれない。ただ、すでに近くにいて感じているのは、彼女との間にあった、長男と同じ“見えないモヤのような距離感”がなくなっていること。
言葉で上手く表現できないが、彼女がそこにいると実感できる時間が増えている。
それは表情なのか、言葉の言い回しなのか、オーラのようなものなのか分からないが、少なくとも気持ちを汲むことが楽になっているのは確かだ。
それは表情なのか、言葉の言い回しなのか、オーラのようなものなのか分からないが、少なくとも気持ちを汲むことが楽になっているのは確かだ。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~問題の先送り~
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