妻
父母の均衡
娘が『母親』を受け入れて以来、少しずつではあるが、家庭内で起こす娘の問題行動が少なくなくなっていった。結局、私に対しての“よそよそしい態度”は相変わらずだが、少なくとも父母の前で露骨に態度を変えたり、朝から獣の様な唸り声を聞くことはなくなっていた。
これは娘がそれまで、父親に一点集中していた『依存』や『過集中・意識し過ぎ』に対し、母親の存在感が強く大きくなったことで偏っていられなくなった事が大きいだろう。父親がいない間、母親に覇権を示す必要がなくなったので、わざわざ母親を試すようなことも激減していったのだ。
────── これは大きな成果だ。
これで妻の『子どもたちに対する戸惑い』はなくなるだろう。そう思っていた。
この時までは。
指針の喪失
妻と娘の決闘から一月が経った頃だろうか? 家庭内に小さな、非常に小さな変化が起こっていた。
まず、娘の私に対するよそよそしさ。それまで隣の部屋に逃げたり、部屋の対面に逃げるような、あからさまな態度だったのだが、【本人が意図的にやっているのか、そう見えるだけなのか微妙な感じ】になった。私の近くにいる限り『どこか不自然さがある』1日が繰り返されていく。
例えば私がいる間、顔はテレビを見ているが、視界の片隅にいつも私をおいているような状態を保ち、何時間でもそうしていたり。逆に私側の手で頬杖をつき、一切目に入れないようにしてずっと動かなかったり。
私が部屋に入る度に、ほんの少しだけ座る位置を直して、姿勢を正したり。
ずっと作り笑顔を浮かべたまま、ゆるやかにロッキング(体を前後に揺する)していて、決してこちらを見ようとはしなかったり。
……そう、あきらかに『意識している』が、それを巧みに誤魔化そうとしている。そしてそれは確実に彼女を疲弊させていて、就寝直前にパニックを起こしたり、元のあからさまな緊張に戻る毎日。
つまり、結局一日中意識していることには変わりがないが、以前と違い『途中で潰れない余裕がある』状態だ。結果、私の『違和感』に包まれる時間が、数時間から1日単位に伸びていた。
今までの『明らかにおかしい』場合と違い、この『微妙な違和感』は長時間の意識を強いられる。
今までの『明らかにおかしい』場合と違い、この『微妙な違和感』は長時間の意識を強いられる。
無視しても、結局夜におかしくなることは変わらず、顔を合わせないようにすると余計にぎごちなさが激しくなっていく。
合わせたように、長男もふいに緊張を見せるようになりだした。
私が入室したり、その日初めて顔を合わせるような時、長男は明らかに私の表情をうかがってくる。私が笑顔でなければ、マンガやゲーム・テレビに集中しきって、こちらに視線を絶対に向けないようにする。逆に笑顔だったりすると、猛烈に話しかけてきて『なんかして! なんか遊んで!』と離れようとしなくなる。
こういった時の目は、おもちゃ屋さんでパニックを起こしている時のような、どこか焦点の合わない、輝きが失われた目になっていて、目頭にも不自然な力が入り、どこか切れ長な猫の目の様な印象になる。
この『父親の入室の瞬間』に異常な集中を見せ、私の足音を耳にするとまず緊張、その後必死で私の表情を確認しようとしてくる。
やがて、上ふたりの行動は、次男にも波及した。
私が部屋に来る度に、それまで遊んでくれていた兄姉が、隣で緊張したり硬直したりを毎回していたら3歳の彼に影響が出ないわけがない。
私はとうとう、次男にまでよそよそしくされるようになってしまった……。
そしてこれら子どもたち3人の行動は、すべて指摘するべきかどうかの微妙なレベルで行われ、改善の糸口になる取っ掛かりが失われていた。
教育の指標の喪失。逆に大きな問題が起これば、話も出来たのかもしれないが、そうならないように最新の注意を払って行動を取られていた。
なによりも厄介な問題は、これらの先にある。
この曖昧な環境は、当然、妻の判断力を奪い、ようやく芽生えた積極性を失わせていった。
この曖昧な環境は、当然、妻の判断力を奪い、ようやく芽生えた積極性を失わせていった。
霧の中の世界
ぼんやりとした違和感の連続。リラックスのないリビング。そして、表情が失われていくパートナーの『窮屈そうな』表情────。
大きな衝突はなくなった。しかし、今度は表情のない、欺瞞に満ちた家に陥ろうとしていた。
【やりすぎたのか……、また、俺は間違えたのだろうか?】
妻に子どもたちに感じている事を聞く。しかし、目頭に不自然な力が入った、長男と同じ切れ長な目は、すでに光を失っている。
妻『う~ん。なんだろうねぇ?』
こうなると彼女はもうそこにいて、そこにはいない。あの『どこか他人事』な距離感の始まり。モヤの立ち込める対岸に立たれているような、もう絶対にその手を取れないような、置いて行かれた喪失感。
────── どうして、いつもこうなるんだろう?
気が付くと、また夜眠れなくなり始めていた。
また、手探りで歩き出す
このままではまずい。また、私の思考が停止してしまう!
このぼんやりとした生活が続いたある日、私はとにかく手探りででもと行動に出た。
リビングのドアを開けるなり、表情を確認して漫画に逃げようとする長男と、作り笑顔のまま、今まさに姿勢を正してフリーズしようとしていた娘に声をかけた。
私『ちょっと大事な話がある。聞いて欲しい』
正される気配を感じたのか、娘が大きくびくっと反応した。
私『いや、お父さんの声を聞いて欲しい。怒っている声かな?』
ハッとした顔で首を振る娘と長男。
私『じゃあ話をするね? だから君らも思うことがあったら話して欲しい』
・お父さんが部屋に来た時に何を感じているのか?
・お父さんがいる間、なにを我慢して、何をやってはいけないと思っているのか?
・それは『お父さん』が怖いのか、『失敗する』のが怖いのか?
・お父さんがいる間、なにを我慢して、何をやってはいけないと思っているのか?
・それは『お父さん』が怖いのか、『失敗する』のが怖いのか?
ゆっくりと表情を見ながら、分かるように噛み砕きつつ、ふたりに問いかけた。私の目を見つめたまま硬直するふたり。
私『……目を見なくていい。今の話を思い出して、言いたいことがあったら教えて欲しい』
視線を逸らした途端、長男はややかすれた様な、落ち着いた声で気持ちを言い始めた。気負いや気取りの無い時の彼は、年齢の割に落ち着いた声をだす。きっと、今、彼は本心を話しているのだろう。
長男『よくわからないけど、お父さんが来ると、“元気かな”とか“遊べるかな”って思っちゃう』
私『だからいつも顔を見てくるの?』
長男『……うん。よくわからないけど、きっとそうだと思う』
私『笑ってたら話しかけて、笑ってなかったら離れる。そうだね?』
長男『……うん。そう……しちゃってる』
私『じゃあ、お父さんがどんな気持ちでも、いつも笑顔で部屋に入らなきゃいけないね?』
ここで長男の顔が変わった。伏せていた顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
長男『あー、……ちがう。ちがうよね? これ……』
私『うん。いつも笑っている人はいないよね?』
長男『そうだ……』
私『君はお父さんが笑っていないと安心できなかったんだよ。その確かめ方だと、いつもお父さんは遊んでくれないことにならないか?』
長男『うん』
彼は会話の最初を緊張したり、『自分が間違っていないか?』と構えて入ると、ほとんどの会話を飲み込めず、耳に残った音を文字起こしして会話するような回りくどい状態になる。しかし、目を伏せさせることで、余計な緊張から開放されるのか、驚くほどの飲み込みの速さを見せることがある。
私『それに、最初に遊べなくたって1日は長い。その後、いつだって遊べるかもしれないし、まずは声をかけておかないと、それこそずっと遊べないよね?』
長男『うん』
私『だから言うよ? 君は断られることを怖がっちゃっただけだ。その怖い気持ちでいっぱいになっただけだよ』
もう長男は大丈夫だろう。この彼らしい『試し方』の発想にとらわれて、彼は抜けられなくなっていた可能性が高い。その状況を自分で気がつくけるほどの年ではない。
彼は自分の葛藤の正体を理解したのか、急に明るい表情になった。
幼いASDの娘の難しさ
ここまでのやり取りを聞いていた娘は、自分のことではないからこそ、いつもより理解ができていたようだ。元々、人の話を聞いて自分のことだと勘違いするクセはあったが、だいたいその時の理解力は高いことが多かった。
娘が数カ月ぶりに、演技のない顔でこちらを見ている。
私『娘。君はどうかな?』
娘『……お父さんとあそびたかった』
私『遊びたいのにジッと固まってたら、いつまでも“遊んで”は言えないよね?』
娘『お父さんとあそびたいとおもってた』
私『うん。じゃあ、君は今、お父さんの考えてる言葉がわかるかな?』
娘『……わからない(目に涙を浮かべる)』
私は苦笑した。あまりに娘らしい反応だったから───。
私『わからないことは悪いことじゃないんだよ?』
娘『えっ?』
私『君の頭とお父さんの頭は離れていて、違う頭なんだから、分からなくて当たり前でしょ?』
斜め上に視線を向けながら、首を傾け、口は何かを探るように、小さくアグアグ動く。今までにない何かを受け入れようと、今必死に近い概念を探そうとしているようだった。
娘『……言わないとわからない?』
私『言わないと分からない。』
娘の目に一瞬、ゾッとするような鋭い光がさした。
娘『私、お菓子がたべたい』
……疲れる。この状況で考えたことがこれか……?
私『考えていることは言わなきゃわからないけど、言ってもそうしてもらえないことはある』
一気に彼女の顔が絶望に染まっていく。たったこれだけの願望が崩れただけで、彼女は全てを否定された気になってしまう。
私『……そうしてもらえなくたって、ずっとダメなわけじゃない。少なくとも君が今、お菓子を食べたいというのは分かった。これは叶えられる時に叶えてもらえるかもしれない。それに言わなきゃ絶対に叶えてもらえない。それだけはわかってほしい』
娘の目からはもう光が消えていた。笑ったような口元と、独特な筋肉の緊張で浮かぶえくぼ、焦点の合わない目。
……たぶん、今、彼女の思考は『お菓子』と『否定された』で支配されている。私はこれ以上の会話を断念した。
世の中の仕組み
ふたりにとった手段に効果はあったのか?
とりあえず長男には進歩が見られた。私の入室に対し、硬直でも伺いでもなく、自分から話しかけようとしてくるようになった。ただ、話しかけることに意識しすぎな点も否めないが、次男まで引っ張られることはなくなった。
娘はと言えば、全く効果はないどころか、また距離が開いてしまったようだ……。
そして妻は現状に満足しているのか、やはり積極的に娘に関わろうとはしなかった。娘を会話で何とかするのは確かに難しい。しかし、妻の場合は話しかけても硬直されない可能性は高いにもかかわらず、自発的に本人の気持ちを聞こうとはしなかった。
そう、娘の考えは変えられなくても、聞けば答えはする程度には成長しているのだ。
しかし、妻にとっては娘が『何でバランスを崩すか分からない』という恐怖心で縛られてしまう。もう一歩、あともう一歩進もうとする努力が足りない。これがわが家がチャンスを逃し続けている理由のような気がしてならない。
どこから手をつければよいのかわからない上に、放っておけば落ちていく3人。そして、声をかけ過ぎてもやはり落ちていってしまう。
そんなジレンマに締め付けられていたある日、突如長男の様子が豹変した。急によそよそしく、突発的にきつい口調で言わなくてもいいことを連発してしまう。何かあったのか尋ねても、虚ろな目は焦点をあわせることもなく、反応が異常に鈍い。
それが三日ほど続いたある日、彼は高熱を出した。
小児科に掛かり『風邪』と診断されたが、二週間経っても症状は改善されず、彼の異様な態度は続いた。流石にこれはおかしいと思い、県立の大きな病院で検査を受けた所、そのまま1週間の入院となった。
小児病棟は親の付き添いが必須。
私は1週間、午前中仕事をして、午後から翌朝まで長男に付き添い、病院に寝泊まりする生活を送ることとなった。
【つづき】⇒アスペ妻の記録~葛藤という病~
スポンサーリンク