『幼い子どものクセは自然にまかせて、温かく見守っていればいい』
それがなかなか通用しないケースがあります。
自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の長男と娘、定型発達(いわゆるふつう)の次男の成長を見ていると、非常に多くの違いに気がつくことがあります。その中で最も特徴的なのが、問題のあるクセや口癖に対して【自分で気がついて判断・修正していけるか】という部分です。
また、上ふたりの場合は6歳くらいまで『……これは注意したほうがいいのかな?』と、判断に苦しむ事が多く、しかしその直感は大抵当たっているのに、問題化しないために動くタイミングを失い続けるというパターンがありました。
この時、いつも私の中に渦巻いていたのは、【注意しないと絶対に変わらないが、しかし、あまりに頻度が高いために過干渉になるのでは……】という葛藤です。これは、親としては非常に苦しむ部類でした。
一般的に言われている子育て方法では、全く歯が立たないどころか、あきらかに今必要となりそうだと思われる対処が、一般的にはことごとくNGとされるものだったり。
今回はASDの子育てに見られる、親が葛藤しがちなしつけの部分と、次男の成長と比べてみて分かった、表情や表面的な言動の裏にある本当に必要だったと思われる事をまとめてみたいと思います。
口癖:それはただの言い間違いか特性か
だいぶ言葉が増えてきた1~2歳の頃に、急に煩わしくなって言葉を簡略化しようとしたり、面倒臭がって話さなくなるなどはよくある話です。最初の長男の時は“あれ?”と思ったりしましたが、わが家ではその後、娘にも次男にも見られた事で、そういう目で観察してみると、保育所や地域で見かける幼児にも見られることがあります。
3歳後半くらいになるとかなり会話になってきますが、そこでよくあるのが『ちょっと気になる言葉使いの間違い』。細やかな言語を獲得するというのは、生物としては非常に稀有な人間独自の習性ですので、実際は子どもにとっては『うまく話せない』というのは等しくストレスの多い問題です。
そんな中で起こるのが『これさえ言っていればいい』と言うような【複数の用途を内包した使い方】と、テレビ・漫画・大人の言葉から引っ張り出してきた、【本人なりに関連のある言葉】を繰り返し当てはめて使うパターン。定型の子どもでも、時折この当てはめたような言葉の用法が目立つ時期が出てきたりします。
自閉傾向のある子の多くに見られる“エコラリア(オウム返し)”ですが、そこにも【本人なりに関連のある言葉】として意味を内包している事があり、それは理解していくほどに定型の子どもも行う“当てはめたような言葉の用法”に連続した反応なのだと思う事があります。
そう考えると次男と上ふたりの特性と思考との垣根が、薄くあやふやに思えてきますが、実際は本人がどの段階で適切な言葉選びや発想に修正をかけてくるかが、大きな違いになってきます。
言葉から行動へ
この時に“間違ってしまっていた”のであれば、何度も間違えようが何かのきっかけで修正が掛かります。ただ、上ふたりの場合、この“間違ってしまっていた”への修正も、遅延性エコラリアの様に【本人なりに関連のある言葉】になっていて、そもそも正誤で考える対象にしていない事があります。【だいたいあってるからいいじゃん】的な発想すら薄い感じ。
そして方法として【これさえ言っていればいい】と思い込んでいれば、長期化するのはもちろん、しっかりと納得の行く説明を得ない限りは当然の事として譲らなくなってしまう危険性も出てきます。実はこの【これさえ言っていればいい】と思い込むのは、誰にでも起きているのですが、子どもの内にクセづくと厄介なものがあったりします。
【自分の欲求を相手に伝える時に、直接要求を伝えないで回りくどい言い方をしたり、相手から言わせる方式】です。
よくあるのは“遊んで欲しい・かまって欲しい”と思っている時に、分かり切っている質問を投げかけて、そこから相手主導でコミュニケーションに発展させようとするパターン。これはどちらかと言えば、よく周囲を観察している(空気が合っているかは別として)賢い子に多い気がします。
この方法論もコミュニケーションの手順ひとつのでしかなく、たいていは他の方法の獲得などで薄まっていくのですが、【これさえ言っていればいい】と思い込んでいれば関係性に偏りが生まれやすくなります。
この【相手から言わせる方式】は、例えば親などの叱責を恐れて、物が言いにくいためにそうなってしまったケースもあるでしょう。しかし、中には“失敗する”事自体を叱責と同じくらい嫌い、考えずに済む方法論として選択しているタイプや、単に結果として自分の欲求に叶っているから続けているタイプも存在します。
3歳の峠:次男と兄姉の違い
わが子3人を見てきて思ったのは、言語とコミュニケーション獲得に関わる次のようなステージです。
1~2歳児期
【次男】
音を発して、そのリターンが来る発見と、発語の難しさへのイラ立ち。楽しむ部分とイラ立ちとバランスが見られた。一時、全てを一音で済ませてみようと企て失敗
【長男・娘】
発語の難しさへのイラ立ち・喉や口内の違和感・言葉にメリットを感じられない、頑として言葉を発さないなどが見られた。話し始めは平均よりやや遅め
3歳児前半期
【次男】
話す事、伝える事の難しさ、社会的なつながりに表現を持てないことへのイラ立ちと、部分的な諦めや先延ばしが見られる。“相手から言わせる方式”が見られるようになる
【長男・娘】
思ったことを無軌道に口にするのは積極的だが、キャッチボールの段階で放棄したり、分かっているものと捉えていて癇癪を起こす。場面緘黙を疑わせる事が散見。
3歳児後半期
【次男】
特定の人物にヤキモチを焼くようになる。兄弟や他の子が親と話していると、そこで聞いたことをそのまま繰り返して反応を得ようとしたりなど、会話に効果を探ろうとする試みがある。ただし、方法論に対してコミュニケーション能力に限界があるため、考えすぎて疲れてしまいグズつくなどが見られた。その疲れやすい状況下のせいで“相手から言わせる方式”が裏目に出始める
【長男・娘】
他人との違いや、意思疎通の境界線が分からず、また会話で少しでも分からないことがあればそれ以上は耳を塞いでしまうので、コミュニケーション能力の成長がストップしている状態に。距離感の問題から、少しの違いでも癇癪を起こすため会話が成立しなくなる。外では年齢的にも他者との関わりに興味が弱いので、問題にならないが水面下ではフラストレーションを溜め込んでしまう
4歳
【次男】※現在まだ3歳ですが(まもなく4歳)峠は越えたので
基本的には『しっかり会話になってきたなぁ』と安定を見せるが、体調不良や眠気・疲れなどの不安を感じやすい時は、“相手から言わせる方式”など伺うような行動が出てきてしまい、まだぐずつく事がある。それでも自律的・自発的な会話が増えているのが分かる。言葉の言い直しにも以前の様な反発がなく、すんなり応じる
【長男・娘】
パニックや困惑がなく、安定している時などは、かなり会話が自然と運ぶようになる。ただ、スイッチが入ったように一方的なモードになったり、思いもよらない言葉に反応してしまったりがまだまだ起こる。こちらの話に多少耳を貸すようになり、癇癪の回数も減っているが、俄然“間違う”事には敏感で、自信がないとすぐに離人症の様な“そこにいない感じ”に陥る。また“相手から言わせる方式”や“本人なりに関連のある言葉”は健在
並べていくと何となくニュアンスが伝わるかもしれませんが、3歳と4歳の間にちょっとした変化があるのを感じました。特に3歳の頃はそれまで要求されてきた会話での社会性から、少し難易度が上がり始める時期なので、非常に荒れやすくなりました。
4歳で少し落ち着く理由としては、歳相応の脳の発達もあったのかもしれませんが、コミュニケーションとして言葉が落ち着いてきたことと、話す相手との距離感などが見えてきたこと、そしてそれらを総合的に試せる、他の子どもとのコミュニケーションが増えてきたことだと思われます。
特に5歳からは目に見えて子供同士で成長していく事が増えますので、一気に会話が深まります。その半面、我慢や疲れやすい状況も増えるので、発散するときは結構大掛かりに出てきたりもします。そのイメージもありますし、求められる社会性の範囲から言っても、4歳の頃はやや安定した時期でもありました。
ここまででハッキリと分かっているのは、上ふたりも次男も、社会性を獲得するにはかなりのストレスを受け、そこから人との距離感を獲得していることです(特定人物への愛着や依存は別として)。そして、そのストレス状態の時は、不安や焦り・憤りなどで余裕がなく、言い間違いの指摘も、ズレた【これさえ言っていればいい】に対する説明も、理解できるできない以前に聞く耳を持てません。
しかし、言い間違いに関して言えば、次男の場合はそれほど間違うことに否定的ではないので、どんどん周りの話し方から修正をかけていきました。それに対し上ふたりは他者の言葉に違いにを感じると、想像以上に『はっ』となってショックを受けてしまったり、自分の言葉の使い方以外に思い及ばず、人の言葉から習っていく事はほとんどありませんでした。
起こりがちな親のジレンマ
わが家の自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の長男と娘の場合、『0か100か』や『全か無か』のように極端な答えを持つ【両極思考】が強く出ています。この両極思考はマイナスな方向に対して働く傾向があり、特に『否定・是正・注意を受ける』など、自分に間違いがあるとされる状況に対して強く拒否反応を起こしてしまいます。
『否定・是正・注意を受ける』は、その度合はあまり関係ありません。パッと『間違えてた!』と思った瞬間に“それが全て”になってしまい、“ちょっとやり方を変えれば楽になる”などの、先につながる発想が根こそぎ視界から消えてしまう状態です。
この癇癪は成長とともに、人との距離感やストレスの逃し方を覚えたり、人の話が極端な意図のものではないと理解するとなくなって行きます。しかし、やはり極端な受取方は根本的には変わっていないので(過敏な抱え込みを思いとどまったり、リラックスを取り戻すキーワード付は出来るが)、条件反射のように手を離して止めてしまう傾向があります。
では、そこで思う通りにさせておけばいいのかと言うと、上手くいかないストレスで結局は癇癪を起こしてしまいます。触れなければ癇癪を起こし、間違いに気がつくことも出来ません。しかし、触れようとしても癇癪を起こし、間違いを見ないようにしてしまうのです。どちらを選んでも失敗につながるジレンマは、立ち位置を見失った親を追い詰めることもあります。
実はこのジレンマに陥る背景にある、子どもの劇的な感情や余裕の無さが見える時期は、【しっかりと社会に向けて気持ちを向けているからこそ起きている】という事実は、なかなかその時に気がつける事ではありませんでした。
口癖、クセ、偏った言動への対処
代償行動の様な爪噛みや貧乏揺すり、ロッキングの様な反応。ふとした口癖や言い間違い。コミュニケーション上の偏った言動など、親が気になることはたくさんあります。
私が思っているこれらへの対処方法は、結論から言えば冒頭と同じ『幼い子どものクセは自然にまかせて、温かく見守っていればいい』となりますが、ここに付け足すことがあります。
【でも、違っていることは伝えなければならない】
なぜ『幼い子どものクセは自然にまかせて、温かく見守っていればいい』を残しているのか。
子ども自身が偏りのある方法を取ってでも、コミュニケーション方法にこだわっているのは、人に関わり社会に興味がある証拠です。それすらもなかなか上手くいかず、余裕を失っている状態なのですから、【説明し、教え、選択を任せる】という立場は見守ることと同義です。
確かに子どもは一定まで成長すると、驚くほど自分で学んでいきますが、たまには答え合わせも必要なのではないでしょうか。それに反応しなくても、本人の自然な反応ですし、ちゃんと教えることは抑圧ではありません。
『君を否定するつもりではない。間違ってるって言う訳じゃない。いい方法があるんだけど聞いてくれる?』
わが家のASD当事者3人に有効であった、アドバイスする前の前置きです。こちらがどの立場で指摘してくるのか、ハッキリとさせてから伝えているので、訂正への強迫感を持ちにくいようです。癇癪や自己評価の低下が激しい彼らに言葉を届けさせられたのは、この言葉に共通する“見守る姿勢”だったのかもしれません。
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